坂本龍馬と幕末の時代に活躍した「高杉晋作」とはどんな人物?
時代は260年間以上続いた江戸時代から、明治に変わろうとする、尊王攘夷を推進する幕末時代となる。
そんな激動の時代を、一生懸命生きた男がいた。
それが「高杉晋作」である。
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明治維新の中心に動いたのは、長州藩(今の山口県)の若者たちであった。
若者多くは吉田松陰(よしだしょういん)が開いていた松下村塾の塾生たちであった。
吉田松陰は、日本の国を近代国家に変えて、外国と同じくらいの力を持つ強い国を目指すことを説いていた。
(絵:吉田松陰_www.co-media.jp)
松陰は、幕府に捉えられ処刑されてしまうが、その意志を受け継いだ若者が維新を動かしていくのであった。
高杉晋作もその中の一人で、19歳のときに松陰の松下村塾に入塾している。
(写真:高杉晋作_www.geocities.jp)
晋作は外国を学ぼうと、藩を代表して清(今の中国)を視察する。
しかし当時・清国は、アヘン戦争でイギリスに破れ、外国に支配されていた。
晋作は、「やはり松陰先生が言うように、このままでは外国に奪われてしまう。幕府を倒し、強い日本をつくらなければ」と強く感じたという。
帰国後、藩にそのことを伝えるのだが、その意思は伝わらず、ついには藩を離れることになった。
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○「騎兵隊」を組織した高杉晋作
当時長州藩は、外国の船を攻撃して事件を起こし、長州藩と外国との間で戦争が起こっていた。しかし長州藩はボロボロに負けてしまう。
それを見た晋作は、身分に関係なく、強い日本をつくるという「志の高い者」を集めて、軍隊をつくることを始めた。
晋作が、隊員を募集すると4日で60人の志のある若者が集った。
晋作は、この軍隊を「騎兵隊」と呼んだ。
藩のために戦うのではない、日本のために戦うのだと説いた。
それまでは、旧式の刀や槍などを使って戦っていたが、これから外国に負けないようにと、銃を持った強い軍隊をつくっていく。
騎兵隊は、その後4000人ほどの強い部隊となっていった。
志半ばにして、晋作は肺結核の病気にかかり27歳でこの世を去ってしまう。
○晋作から坂本龍馬にピストルをプレゼントする!
長州藩では200石ほどの中流家臣であった高杉晋作と、下級武士となっていた坂本龍馬は、太平の世なら二人は出会うことはなかった。
幕末から維新にかけて、「強い日本にする」という志が同じだったため、彼らを引きあわせたのであった。
高杉晋作と坂本龍馬の出会った記録は、ほとんど残されていないが、高杉晋作が坂本龍馬にピストルを贈ったという話しがある。
晋作は当時アメリカの南北戦争で余った、小銃を手に入れることになった。当時は大量に日本に輸入されていた。
そのピストルを漢詩を書いた色紙とともに、龍馬に送っているのである。晋作は龍馬を信頼し、このピストルで身を守ってほしいと。
(写真:坂本龍馬_matome.naver.jp)
龍馬は晋作から贈られたピストルを護身用に持っていた。1866年(慶応2年)に寺田屋事件で、龍馬が持っていたピストルを使って、難を逃れている。
龍馬の最期に撮った写真にピストルを持っているが、晋作が贈ったピストルではないようだ。
○晋作には愛人がいたって本当?
1860年、晋作には奉公している井上平右衛門の次女の雅子と結婚している。晋作24歳のときに子どもが生まれている。
(写真:高杉 雅子_blogs.yahoo.co.jp)
しかし、晋作には尊王攘夷のために日本を奔走していたので、ほとんど家に帰ることもなく、7年間の結婚生活のうちで、雅子と共に暮らしたのは、わずか1年半ほどだったという。
また晋作は、下関の芸妓をしている「おうの」という女性もいた。
しかし、妻の雅子と性格が合わず、仲が悪かったと言う。
晋作は、二人の仲が悪いことに困り果てている手紙を書いている。
晋作は晩年は おうの とほとんどの時を過ごしている。おうの と晋作の間には、子どもはいない。
(写真:おうの_bakumatsu.org)
晋作の子どもである東一は、祖父母に育てられている。東一は、外交官としてホノルルやウィーンなどに在駐している。アメリカにも渡り、「英和新国民辞書」などを出版している。
○まとめ
・明治維新の中心に動いたのは、長州藩であった。
・長州藩には高杉晋作がいて、吉田松陰の「強い日本」の意思を受け継いだ。
・晋作は、強い日本をつくるため「騎兵隊」を組織し、銃を持って外国と戦った。
・晋作は肺結核で27歳という若さでこの世を去っている。
・晋作には妻の他に愛人がいた。
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