「雨ニモマケズ」の作者で知られる宮沢賢治ってどういう人?
皆さん宮沢賢治(みやざわけんじ)という人物はご存じだろうか。
何となく聞いたことがあると言う方も多いのでは。
宮沢賢治は、明治、大正、昭和を生きた日本の詩人であり、童話作家でもある。
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彼の残した作品は、詩が400作ほど、童話が100ほど残しているが、彼の生前に刊行されたのは、「春の修羅」と「注文の多い料理店」の2作品だけであった。
それも「春の修羅」は、自費出版で出した作品である。
(写真:宮沢賢治 春と修羅_why.kenji.ne.jp)
彼の没後草野心平らの尽力によって、無名の彼の作品を国民的作家とすることになった。
草野心平(くさのしんぺい)は、宮沢賢治同様に日本の詩人で、宮沢賢治や八木重吉らの同人えを誘う一方で、彼らと生前直接面識を得ることはなかった。彼の作品は、1950年「蛙の詩」によって第1回読売文学賞を受賞している。
(写真:草野心平_blog.goo.ne.jp)
1983年文化功労章や、1984年にいわき市名誉市民として活躍している。
宮沢賢治の作品では「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」そして「雨ニモマケズ」は、おそらく学校で学んだことあるのではないでしょうか。
宮沢賢治の作品は、研究家の間でも様々な解釈が行われることになる。
それは、宮沢賢治は肺の病で38歳でこの世を去っているので、彼の残した詩や童話の解釈が難しいものとされている。
○宮沢賢治ってどういう人?
賢治は岩手県の花巻で1896年8月27日に生まれている。
今や日本の詩人として、童話作家としても有名である。
代表作としては、「銀河鉄道の夜」や「注文の多い料理店」や「風の又三郎」そして「雨ニモマケズ」などの作品がある。
「銀河鉄道の夜」は、映画化やアニメーション化、演劇化された作品でもある。
(写真:銀河鉄道の夜_www5b.biglobe.ne.jp)
賢治は小さいときから自然に興味を持ち、山登りや草花や石を集めるのが大好きな少年であった。
彼は「石っこ賢さん」と呼ばれるくらいに熱中する子だったと言われている。
家は比較的裕福で、父と母は熱心な仏教信者でもあった。
その影響のもあって、賢治はしだいに仏教に興味を持つようになり、仏教の本や法華経(ほっけきょう)などを読むようになった。
20歳のときに盛岡高等農林学校(今の岩手大学農学部)を主席で進学する。このころから、少しづつ童話を書くようになる。
賢治は仏教の教えに従い、肉を食べず穀物や野菜しか食べない「菜食主義(さいしょくしゅぎ)」に徹していた。
これは「殺生をしていけない」という仏教の教えを守り通したのである。
賢治はよく病気をした。
盛岡中学校のときには肥厚性鼻炎(ひこうせいびえん)を患い盛岡の岩手病院に入院している。
このとき看護婦に恋心を抱くが、片想いに終わっている。
また大学卒業後、肋膜炎(ろくまくえん)を患い入院している。このころ賢治は友人に「自分の命もあと15年はあるまい」と言っている。
賢治には弟1人と3人の妹がいる。その中でも妹のトシは賢治にとってよき理解者でもあった。
そのトシが病気で倒れると、賢治は岩手に戻り看病することになる。結局トシは賢治が27歳のときに、亡くなってしまうのである。
(写真:亡き妹に会いに天上に架ける橋_48863135.at.webry.info)
この悲しみが賢治の作品づくりに大きな影響を与えることになる。
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○難解な宮沢賢治の作品が多いのはなぜ?
宮沢賢治の作品の中で、難解で未だに研究者の間で意見が分かれている作品が多いのも事実である。
「やまなし」は、宮沢賢治の短編童話である。賢治の数少ない生前発表された童話の一つでもある。
この童話の作品の中に出てくる「クラムボン」と「イサド」の正体については、今も不明である。
「クラムボン」については、カニを意味するものか、アメンボ説など様々な解釈がされている。
現在の教科書では「作者が作った言葉で、意味は良く分からない」とされている。
また宮沢作品で有名な「銀河鉄道の夜」は、孤独な少年ジャパンニが、友人のカムパネルと突然、銀河鉄道に乗り、銀河を旅する物語である。
牛乳をもらいに牧場に行ったジャパンニが、牛乳をもらえずに、一人丘の上にいくと、突然耳に「銀河ステーション」というアナウンスが響いてきたという。
目の前が強い光に包まれ、気がつくと銀河鉄道に乗っている。
見ると友人のカムパネルも乗っていた。
それから白鳥の停車場へ行ったり、鷲の停車場へ行ったり、そこでのジャパンニと友人のカムパネルとのエピソードがあった。
しかし、この作品の中でも、賢治の独特な表現もあり、作者でしか分からない隠語もある。
賢治は、独特の彼自身の世界観を素直に表現しただけであったのであろう。
おそらく理屈を超えて彼にしか分からない、世界があったのではないかと思われる。
○宮沢賢治の作品
ここで一つ宮沢賢治の有名な作品をご紹介しよう。
[雨ニモマケズ]
宮澤賢治雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
○まとめ
・宮沢賢治は、日本の詩人であり、童話作家である。
・宮沢賢治の作品では「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」そして「雨ニモマケズ」などがある。
・宮沢賢治は肺の病で38歳でこの世を去る。
・賢治は小さいときから自然に興味を持ち、山登りや草花や石を集めるのが大好きな少年であった。
・賢治はしだいに仏教に興味を持つようになり、仏教の本や法華経(ほっけきょう)などを読むようになった。
・賢治は仏教の教えに従い、肉を食べず穀物や野菜しか食べない「菜食主義」であった。
・賢治には妹のトシがいて、賢治にとってよき理解者でもあった。
・トシは賢治が27歳のときに、亡くなってしまう。
・宮沢賢治の作品の中で、難解で未だに研究者の間で意見が分かれている作品が多い。
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