日本の漫画界の父と呼ばれた手塚治虫!
漫画(マンガ)やアニメは、今や日本を代表する文化の一つとなっている。
海外の映画と肩を並べらるのは、アニメだけ言われている。それだけ日本のアニメは世界でも有名となっている。
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戦後まもなく、そのマンガ界の道を切り開いた人物が「手塚治虫(てづかおさむ)」である。
彼の作品の多くは、それまでに無いマンガの作風で、世間をマンガに夢中にさせた人物でもある。
その代表作である「鉄腕アトム」は、それまでの常識(じょうしき)を覆(くつがえ)すもので、主人公がロボットであり、人間がロボットを助けるものである。
彼は医師免許(いしめんきょ)を持ちながら、医学界(いがくかい)の道に進まず、マンガを描(か)いて世に認(みと)められた人物。
医者(いしゃ)を題材(だいざい)にした「ブラック・ジャック」は、医師免許を持った彼だから、描(えが)くことができたマンガでもある。
(ブラック・ジャック_Naverまとめ)
その他に、単行本として投稿した「新宝島(しんたからじま)」がベストセラーとなり、大阪で赤本(あかぼん)ブームを引き起こした。
(新宝島_CANPAN)
1950年よりマンガ雑誌(ざっし)に登場(とうじょう)し、「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」「リボンの騎士」といったヒット作を次々に手掛けた。
またテレビでも放映され、さらに手塚治虫の名は、世に認めらるようになっていった。
彼の影響(えいきょう)を受けたマンガ家も多く、「ドラえもん」で知られる「藤子不二雄(ふじこふじお)」や、「仮面ライダー」や「サイボーグ009」などで知られる「石ノ森章太郎(いしのもりしょうたろう)」などがいる。
○日本のマンガの歴史を変えた「手塚治虫」
手塚治虫(てづかおさむ、本名:手塚治)は、日本のマンガ家、アニメーターである。
(手塚治虫_しっきーのブログ)
大阪帝国大学付属医学部(おおさかていこくだいがくふぞくいがくぶ)を卒業(そつぎょう)し、医師免許(いしめんきょ)を取得(しゅとく)している。
後に奈良県立大学(ならけんりつだいがく)において、医学博士号(いがくはかせごう)を取得する。
戦後日本においてストーリーマンガの第一人者として、マンガ界の草分(くさわ)けとして存在し、活躍(かつやく)した人物である。
彼は兵庫県宝塚市(ひょうごけんたからづかし)の出身で、後にマンガの功績(こうせき)が認められ、同市で名誉市民(めいよしみん)となっている。
彼は小さい頃からマンガが、大好きな少年だった。
また、家には当時珍(めずら)しかった映写機(えいしゃき、今で言うビデオカメラ)があり、子どもの頃からディズニー・アニメなどを見て暮(く)らしていた。
(少年時代の手塚治虫)
そのうち治虫は、自分でもストーリー考えて、マンガを描くようになっていった。
もともと運動が得意でなかった治虫は、マンガばかり描いている彼を、友だちにからかわれることもあった。
しかしそんな友だちも、ある日、治虫のマンガを読んでだんだん、治虫のマンガに興味(きょうみ)を示すようになっていった。
早く治虫の描いたマンガを読みたいと、催促(さいそく)することもあった言う。
少年の頃からマンガの才能(さいのう)があった治虫だったが、1945年には医者になることを目指して、大阪大学付属医学専門部に入学する。
その一方でマンガ製作も続け、1946年には「マァチャンの日記帳(にっきちょう)」という作品で、マンガ家としてデビューを果たす。
(マァチャンの日記帳_TezukaOsamu.net)
そして1947年、治虫が発表した「新宝島(しんたからじま)」は、大人気となった。
この作品は、それまでのマンガと異(こと)なり、まるで映画のように、登場人物が物語の中で生き生きと活躍(かつやく)する物語となっている。
この作品で、石ノ森章太郎や藤子不二雄、赤塚不二雄(あかつかふじお)など、後に多くのマンガ家にも影響を与えた。
この作品のきっかけで、日本のマンガは急速に発展していった。
治虫はそれからも、マンガを描きながら医学の勉強も続け、ついに医師の免許も取得した。
しかし、治虫は医師への道には進まず、大好きなマンガの道で生きていくことを決めた。
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○アニメ製作にも力を入れた手塚治
それから「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「ジャングル大帝」など、次々と名作を生みだしていく。
しかし彼には、子どもの頃に観(み)たディズニー・アニメのようなアニメを、いつかはつくってみたいと思うようになっていく。
そして1961年に自分の会社(後の「虫プロダクション」)をつくり、アニメ製作をはじめるもとになった。
(産経ニュース)
アニメの記念すべき第1作は、「鉄腕アトム」だった。
(鉄腕アトム_やりすぎ都市伝説まとめ)
毎週アニメを放送することは、とても困難なものであった。
マンガとは違い、アニメは動画として製作することになるため、それまでの2倍、3倍の苦労もあった。
マンガのコマ数を落とすことで、アニメとして成立させたのも手塚治がはじめてであった。
日本でつくられた、最初のテレビシリーズのアニメとなった「鉄腕アトム」は、大人気となった。
日本はもちろん海外でも放送され、手塚治虫の名は、世界でも知られるようになっていった。
それから60歳で亡くなるまで、治虫はたくさんのマンガやアニメの名作を残している。
たくさんの人に夢を与え、愛される作品を生みだした「マンガやアニメの父」として、今でも手塚治虫は尊敬(そんけい)されている。
○まとめ
・マンガやアニメは、今や日本を代表する文化の一つとなっている。
・そのマンガ界の道を切り開いた人物が「手塚治虫)」である。
・彼は医師免許を持ちながら、医学界の道に進まず、マンガを描いて世に認められた人物である。
・単行本として投稿した「新宝島」がベストセラーとなり、大阪で赤本ブームを引き起こした。
・1950年よりマンガ雑誌に登場し、「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」「リボンの騎士」といったヒット作を次々に手掛けた。
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