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ベートーヴェンは難聴になっても名曲を生んだまさに「運命」の人だった!

ベートーヴェンと言えば、「運命(うんめい)」と言う曲は、誰もが知っている名曲(めいきょく)です。

年末になると「第九(だいく)」と呼ばれる曲がよく流れてきます。

その「運命」や「第九」の名曲つくったのは、耳が聞こえないという障害(しょうがい)を乗り越え、人を感動させる音楽をたくさん残した作曲家である「ベートーヴェン」です。





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日本では「運命」または「運命交響曲(うんめいこうきょうきょく)」という名称で知られていますが、ベートーヴェンは曲名をつけることはなかったのです。

運命は「交響曲第5番」というようになっています。

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「交響曲第5番」が正式な曲名で、「運命」という曲名は正式な題名ではありません。

ベートーヴェンの弟子であるアントン・シントラーが「冒頭の4つの音は何を示すのですか?」という質問に、ベートーヴェンは「このように運命は扉をたたく」と言ったことが由来とされています。

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彼は若くして難聴(なんちょう)になるという、作曲家としては致命的な運命になってしまうのです。

そんなベートーヴェンの運命は、どんなものだったのでしょうか。

○ベートーヴェンとは、どんな人なの?

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年12月16日に、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のボンとう町で生まれている。

父ヨハンと宮廷料理人であった母マリアとの間に、長男として生まれる。

祖父(そふ)と父は、音楽をしている一家で、ベートーヴェンは父からピアノとバイオリンを習っていたのですが、スパルタとも言える音楽の訓練を受けていた。

一時ベートーヴェンは、音楽そのものに嫌悪感(けんおかん)を抱くようになってしまう。

そして11歳になると作曲家の先生に習うようになり、曲をつくる方法を学び始めます。

順調に音楽の仕事に向かって進んでいたベートーヴェンですが、16歳のときに大好きだった母親が重い病気になり、間もなく亡くなってしまうのです。

ベートーヴェンのショックは、計(はか)り知れないほどでした。

それから22歳のときに、作曲家である「ハイドン」の弟子となり、オーストリアのウィーンで、作曲の勉強を始めます。

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それからもいろいろな音楽の先生から音楽を学び、ベートーヴェンは、どんどん音楽の才能を発揮するようになっていきます。




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○耳が聴こえない苦しみを乗り越えて名曲が生まれる!

散歩を日課していたベートーヴェンですが、いつも同じ時刻(じこく)に教会の鐘(かね)がなることを知っていました。

しかし、その日に限り鐘の音が聞こえてこないことに気づいた。

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実は鐘の音は鳴っていたのです。ベートーヴェンの耳が聴こえなくなっていたのです。

それでベートーヴェンの耳が聞こえないことに初めて気づくのあった。

音楽と言えば、手で音楽を奏(かな)でて、耳でその音を聴(き)くものです。その耳が聞こえなくなったのです。

ましてや、ベートーヴェンは作曲家であるので、その耳が聴こえないということは、致命的(ちめいてき)でもあったのです。

彼の作曲した多くは、耳が聴こえにくい(難聴)ときに、作られた曲がほとんどだと言われています。

実はベートーヴェンは、生まれつき耳が聴こえにくかったのですが、彼が20歳のときに急に悪化してしまったのです。

いろいろな治療(ちりょう)も試してもみましたが、治(なお)るどころか、どんどん悪くなるばかり。

普通の人なら、音楽の仕事を続けられなくなります。

ベートーヴェンも「もう音楽の仕事はできない」と考えて、一度は死んでしまおうと思ったのです。

しかし思いなおして、作曲の仕事を続けたのです。

そのおかげで、強い心と自信がつくようになり、音楽にもそれが表現されていきます。

難聴で音階(おんかい)を聴きとれないベートーヴェンは、ピアノの鍵盤(けんばん)を歯で叩いて、音階を確認していたという逸話(いつわ)もあります。

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ベートーヴェンの音楽を聴く人はみんな感動するのも、彼自身を奮(ふる)い起すことで、人に感動を与えてくれていたのです。

40代になると更に耳は悪くなり、同時に腹痛(ふくつう)や下痢(げり)なども起こってしまうのです。

こうして苦難な状況でも、人々に勇気を与えた最後の交響曲「第九交響曲(だいくこうきょうきょく)」がつくられたのです。

第九交響曲」は、ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲です。

日本では、通称「第九(だいく)」という曲名でも有名で、副題として「合唱(がっしょう)」や「合唱付き」と言われています。

「第九」の第4楽章に、4人の独唱(どくしょう)と混声合唱(こんごうがっしょう)を取り込んでいます。

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第4楽章の主題は「歓喜(かんき)の歌」としても親しまれ、原曲はドイツ後ですが、世界中のあらゆる言語に翻訳(ほんやく)され、その国の歌詞(かし)で歌われることもあります。

○まとめ

・「運命」や「第九」の名曲つくったのは、作曲家である「ベートーヴェン」である。

・彼は若くして難聴になるという、作曲家としては致命的な運命になってしまう。

・ベートーヴェンは、1770年12月16日に、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のボンとう町で生まれる。

・父ヨハンと宮廷料理人であった母マリアとの間に、長男として生まれる。

・11歳になると作曲家の先生に習うようになり、曲をつくる方法を学び始める。

・22歳のときに、作曲家である「ハイドン」の弟子となり、オーストリアのウィーンで、作曲の勉強を始める。

・どんどん音楽の才能を発揮するようになっていく。

・実はベートーヴェンは、生まれつき耳が聴こえにくかったのですが、彼が20歳のときに急に悪化してしまった。

・強い心と自信がつくようになり、音楽にもそれが表現されている。

・「第九交響曲」は、ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲となる。




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