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永井隆は被曝と闘い、多くの被曝の著書を残す!

あなたは原爆の恐ろしさを知っていますか?

テレビや雑誌などのメディアで、何となく知っている方も、多いのではないでしょうか。




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第二次世界大戦の終わりの1945年に広島、長崎に原爆が落とされ、数多くの方が被曝して死んでいくのを知られています。

広島では約10万人、長崎では約7万4000人の命が一瞬で命を奪われ、その後長い年月の間、やけどや原爆の放射線の影響で苦しんでいます。

そんな中で、一面焼け野原の中で自らも負傷しながら一生懸命、人の命を救おうとした医者がいました。

それが島根県出身の「永井隆(ながいたかし)」でした。

永井は、多くの被曝した人の記録を残し「長崎の鐘」、「この子を残して」の著者でもある。

www.asahi-net.or.jp(写真:www.asahi-net.or.jp)

自ら被曝しながらも、多くの被爆者を治療したことでも有名である。

○「永井隆」とは、どんな人物だったのでしょうか?

永井隆(ながいたかし)は、島根県の松江市に生まれている。

tokyoweb.sakura.ne.jp(写真:tokyoweb.sakura.ne.jp)

生まるときに、母の産道に頭がひっかかり、医師は胎児を切断して取り出そうしたが、母が強く反対し長い時間をかけて、ようやく生まれることができたのです。

その後、県立松江中学校に入学し5年生のときに級長となり、昭和天皇が松江中学校を訪れたときに、全校生徒の先頭にたって迎えた。

運動は大の苦手で、いつもビリから2番目だったと、後に明かしている。

1925年に松江中学校を卒業後、松江高等学校に進んでいる。当時高校のドイツ語教師からドイツを学んでいる。

1928年に松江高等学校を優秀な成績で卒業し、長崎医科大学に入学。その医科大では、苦手な運動だった彼は、球児として活躍している。

その頃部活の活動の一環として、上海や杭州に遠征している。

1931年母が脳溢血のため急逝している。その後霊魂の存在を信じるようになり、カトリックに影響を受けることになる。

1932年大学卒業5日前に、急性中耳炎にかかり重症化してしまい、2か月後にようやく回復するも右耳に障害が残ることになった。

1933年短期間であるが軍医として、満州事変に従軍している。
その頃、妻・森山緑と結婚している。




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○永井は、レントゲンで大量の放射能を浴びる!

1940年に長崎医科大学の助教授に就任し、その後医学博士号も取得している。戦時中は、結核のX線検診に従事した。

永井は戦時中、中国を2回軍医として従事し、帰国してからも結核の研究と治療に励んだ。

戦争が激しくなると、レントゲン用のフィルムの入手も困難になってきた。

レントゲン画像をフィルムを使わずに診察すると、大量の放射線を浴びてしまい、体に悪影響を及ぼしてしまう。

それでも永井は、人々を放ってはおけず、診察を続けた。

そんな中で永井自身が、ついに白血病にかかってしまったのである。

このとき、白血球数は10万8000(正常値:7000程)、赤血球数は300万(正常値:500万)であったという。

○長崎市に投下された原子爆弾で2次被曝となった!

1945年8月9日、長崎市に原子爆弾が投下された。

2014年8月 9日_www.covez.jp(写真:2014年8月 9日_www.covez.jp)

永井は、爆心地から700メートル離れた長崎医科大学の診察室にいたが、被曝してしまう。
井はレントゲンによる被曝と原爆による被曝で2次被曝となってしまったのである。

右側頭動脈切断という重傷を負うも、自ら頭に布だけを巻いて、救護活動をあたった。

永井は、投下されたのは原子爆弾であったことを知ったのは、米軍が翌日投下したビラで分かったのである。

当時、永井は放射線の仕事に従事していたので、原爆のことは知っていた。

もちろんアメリカで原子爆弾の研究をしていたことも。
まさかこんなに早く実用化されたとは信じられなかった。

次の日に、家にようやく家に帰ることができた。
一面焼け野原となっていた。

家を離れていた子どもたちは無事であった。しかし妻はそのときに亡くなってしまう。

永井は、自分も病気と闘いながら、患者の治療に専念する。

そこで永井は、原爆が人間に与える影響を詳細に記録した。

そして「長崎の鐘」の本を発行するのであった。

永井隆の長崎の鐘_itunes.apple.com(写真:永井隆の長崎の鐘_itunes.apple.com)
この本はたくさんの人に読まれ、当時ベストセラーとなり、歌や映画にもなった。

○まとめ

・広島と長崎に原爆が投下され、死者がそれぞれ10万人、7万4000人にものぼった。その後のやけどや被曝に苦しむ者が多くいた。

・永井隆は、自らも被爆するも多くの人を治療し、「長崎の種」や「この子を残して」の本の著者でもある。

・永井はレントゲンで大量の放射能を浴びて自ら被曝してしまう。それにもまして、長崎の原子爆弾で2次被曝してしまった。

・更に永井は、右側頭動脈切断という重傷を負うも、懸命に多くの患者の治療に専念した。




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