日本初の女性医師の荻野吟子!
今では病院にいくと、女性医師はめずらしくない時代で、婦人科などの女性専門の診療科もあります。
今では、医師になるための試験の合格者のおよそ3分の1が女性です。
しかし、昔は女性では試験を受けることすら認めらていませんでした。
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そんな時代に、日本で初めて医師になって女性が、「荻野吟子(おぎのぎんこ)」だったのです。
○荻野吟子とは、どういう人だったの?
荻野吟子(おぎのぎんこ)本名:荻野ぎん は日本で初の女性の医師で、女性運動家として知られている。
(絵:荻野吟子_ja.wikipedia.org)
他にも榎本住(えのもとすみ)、西洋医学を学んだ女性医師としてシーボルトの娘・楠本イネ(くすもといね)などが、女性医師として開業していたが、国家資格をもったのは吟子が初めてなのです。
荻野吟子は、埼玉県で生まれ、兄たちよりも勉強ができたのですが、父は女には学問は必要ないと考え、16歳でときに結婚させてしまうのです。
まもなく夫の病気(淋病・りんびょう)が移り、それが原因で子どもができなくなり、離婚させられてしまうのです。
その頃の日本は、子どもができないのは女性の責任とされ、離婚するかどうかは夫が決めることができたのです。
吟子が治療のために入院するのですが、医師は男性ばかりだったのです。
10代の若い女性である吟子にとって、治療のためとはいえ、男性医師に体をさわられることは、涙がでるほど恥ずかしく、屈辱的な体験をしている。
また同じ病気に悩む女性が治療を受けられずに、手遅れになることを知ります。
吟子は、女医となって同じ羞恥(しゅうち)に苦しむ女性たちを救いたいという決意から、女医を目指すことになったのです。
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○吟子が医師を目指す苦難な道
そんな屈辱的な治療から退院した吟子は、家族の反対を押し切って東京に出て、お茶の水女子大学にあたる女性師範学校に入学します。
(写真:師範学校_ja.wikipedia.org)
吟子以外はみんな男子学生だったので、生意気だと思われ教室に入れてもらえなかったり、トイレにいくときなど、からかわれたりして、いじめにあったのです。
しかし吟子は、男性と同じような服装をして、学費を賄(まかな)うために、アルバイトをしながら一生懸命勉強をし、優秀な成績で卒業することになったのです。
当時の日本は、女性だからという理由で、医師のための試験を受けさせてもらえない時代だったのです。
吟子は、なんども国に願い出て、女性も医師として働けることや、女性医師が必要であることを訴えるのです。
吟子の願いが通じ、やっと医師の試験を受けることが許可されるようになりました。
そして1885年、34歳のときに、吟子は医師の試験にたった一度で合格したのです。
(写真:www.menuma-syoukoukai.jp)
その頃、吟子の他にも医師を目指す女性が何人もいたのですが、女性では吟子ただ一人だったのす。
それから吟子は、医師として活躍し女性が男性と対等に生きていける社会をつくるために、さまざまな活動にも取り組んでいます。
○まとめ
・日本で初めて医師になって女性が、荻野吟子だったのです。
・荻野吟子は、日本で初の女性の医師で、女性運動家として知られている。
・他にも女性医師として開業していたが、国家資格をもったのは吟子が初めて。
・吟子は、16歳でときに結婚させてしまう。
・夫の病気が移り、それが原因で子どもができなくなり、離婚させられてしまう。
・吟子が治療のために入院するのですが、医師は男性ばかり。
・吟子にとって、治療のためとはいえ、男性医師に体をさわられることは、涙がでるほど恥ずかしく、屈辱的な体験をしている。
・吟子は、そんな体験から女医を目指すことになる。
・当時の日本は、女性だからという理由で、医師のための試験を受けさせてもらえない時代。
・吟子は、なんども国に願い出て、女性も医師として働けることや、女性医師が必要であることを訴える。
・吟子の願いが通じ、やっと医師の試験を受けることが許可されるようなった。
・吟子が34歳のときに、医師の試験にたった一度で合格した。
・吟子の他にも医師を目指す女性が何人もいたのですが、女性では吟子ただ一人だった。
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