朝ドラ「あさが来た」で知られる津田梅子は近代日本の女子教育に尽力した
NHKの連続テレビ小説(通称:朝ドラ)の「あさ来た」が話題になりました。
「梅ちゃん先生」として知られ、下村梅子のモデルとなった人物は、堀北真希であった。
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その実在した人物は、「津田梅子」と言い、日本における女子教育の先駆者として知られた人物である。
○6歳でアメリカに留学!
今の日本では、男性でも女性でも、平等に教育を受けることができます。
しかし、昔の日本はそうではなかったのです。
江戸時代から明治時代になってからも、「女性に教育なんて必要ない」と考える人はたくさんいたのです。
そんな時代に、女性にも教育が必要であり、社会での地位を向上していかなければならない、と女性教育で活動した人物が「津田梅子」だったのです。
(津田梅子 – 出典:Wikipedia)
梅子は江戸時代の終わりに江戸(今の東京)で生まれる。
1871年、農学者だった父は、女子留学生に梅子を応募させた。
同年、岩倉使節団として、渡米することになった。5人の使節団のうち最年少の梅子は6歳であった。
(津田梅子~日本女性の自立に向けて)
アメリカの女子教育について学ぶのが留学の目的であった。
使節団は、11月に横浜港を出発し、アメリカのサンフランシスコを経て、同年12月にワシントンに到着する。
アメリカに着いた梅子は、アメリカの日本大使館で仕事をしていた、チャールズ・ランマン夫妻の家にあずけられる。
梅子は夫妻のもとでお世話になりながら、英語をはじめ、文学、科学など幅広い学問を学ぶことができた。
また、西洋の人たちの考え方を身につけるため、キリスト教の洗礼を受けることもした。
こうして1882年に留学を終えた梅子は、18歳になっていた。
帰国したときには、梅子はほとんど日本語を忘れており、箸もうまく使えなくなっていたほど、幼かった梅子は、アメリカになじんでいた。
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○女子教育のため女性の地位向上をめざす!
帰国後しばらくは、女学校で英語の先生などを続けたものの、「女性が学問を身につけるのは結婚のため」などといった、当時の女子教育のあり方に、梅子はなじめなかった。
梅子は「もっと女性が自立して生きていける世の中をつくっていかなければ。そのためには、これまでとは違う女子学校をつくる必要がある」と思うようになっていった。
そこで1889年に、梅子は女性教育について、より深く学ぶため、再びアメリカに渡った。
前回の使節団は、他の者に言われてアメリカへ渡米したが、今度は自分の意思で、目的をもって渡米したのである。
アメリカでは大学に通い、生物学の研究をする一方で、女性の地位を向上させる方法について研究した。
梅子は学者としても優秀だったので、このままアメリカに留まるように説得させられたが、1892年に梅子は帰国することになった。
それから梅子は女子学校の先生などをしながら学校をつくる準備を続けた。
そしてついに1900年、女子英学塾(後の津田塾大学)が設立された。
(津田塾大学)
最初は10人ほどの生徒でとても小さな塾だったが、今の女性のための新しい教育の歴史は、ここから始まったといっても過言でない。
梅子はそれから64歳で亡くなるまで、女子教育と女性の地位を向上させるために、尽力した。
○まとめ
・NHKの朝ドラの「あさ来た」が話題になった。
・「梅ちゃん先生」として知られ、下村梅子のモデルとなった人物は、「津田梅子」である。
・梅子は、女子教育と女性の地位を向上させるために、尽力した人物である。
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