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俳句の芸術性を高め「奥の細道」知られる「松尾芭蕉」

「古池や かわず飛び込む 水の音」という、五・七・五の俳句で知られる人物はご存じでしょうか?

この俳句のリズムは、日本人の気持ちによく、馴染んでいます。




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このように、五・七・五の合計十七音に、季節を表わす言葉「季語」を合わせてつくられた詩のことを「俳句」と言います。

この「俳句」は、日本で生まれた世界で一番短い詩ということになります。

「俳句」は、室町時代に流行した連歌の遊戯性であり、庶民性を高めた文芸であったが、17世紀に「松尾芭蕉」が登場し、俳句の芸術性を高めた。

○「俳句」を芸術性にした松尾芭蕉!

松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、江戸時代前期の俳諧師で、現在の三重県伊賀市の出身である。

(松尾芭蕉)

日本史上最高の徘徊師の一人で、俳句を芸術の域まで高めた人物でもある。

芭蕉は、動物、景色や人間をよく観察して、五・七・五の文字に表し、俳句を詠んだ人は、目の前に情景が浮かんでくるような、俳句へと進化させた。

最初に紹介した俳句は、芭蕉の有名な俳句の一つです。

かわず というのはカエルのことで、水がにごった古池に、カエルが飛び込んだときに、おきるチャポンという音が聞こえたり、水面にできる波を描く模様ができるような、情景となっている。

(古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)_出典:Yahoo!ブログ )

また、じっくり考えて、自然にさらりと句を詠むのも芭蕉の特徴である。




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○芭蕉の代表作「奥の細道」

松尾芭蕉は伊賀国(今の三重県)の農家に生まれる。
伊賀国を治めていた藤堂家の若殿さまである藤堂良忠は、とても俳句が好きだった。

芭蕉は2歳年上の良忠にお仕えして、一緒に俳句を勉強していた。

ところが良忠は25歳の若さで亡くなってしまい、芭蕉は俳句の仕事ができなくなった。

そこで芭蕉は、江戸(今の東京)へ出て、もっと俳句を勉強することにした。芭蕉が31歳のときだった。

芭蕉は江戸に出て、俳句だけで生活をすることはできなかったが、徐々に芭蕉から俳句を習いたいという弟子が増えてきた。

ところが1682年に江戸で大火事が起こり、死者3500名余りを出す大惨事となった。芭蕉の住んでいた小屋も燃えてしまった。

(江戸の大火事)

芭蕉は大火事のときに川に飛び込んで助かったが、焼け野原となった江戸の町をみて、芭蕉は「一所不在」と言ったのである。

これで芭蕉は、一つの場所に住まないとう考えを持つようになっていった

その後、芭蕉は俳句を詠みながらの旅を続け、俳句で旅の感想を書いた紀行文を残している。

芭蕉の代表的な作品は、弟子の曾良をお供にして、東北や北陸を旅する「おくのほそ道」を書きあげた。(奥の細道_出典:芭蕉.com)

芭蕉が51歳のときに、旅先の大坂(今の大阪)で亡くなってしまう。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

この詩は、旅先で病気になって倒れても、やはり知らない土地をめぐる夢ばかり見ている。このような最後の句を残した芭蕉である。

旅と俳句に一生をかけた彼の生き方は、彼が残した俳句とともに、多くの人に愛され続けている。

○まとめ

・五・七・五の合計十七音に、「季語」を合わせてつくられた詩のことを「俳句」と言う。

・江戸時代に松尾芭蕉が登場し、俳句の芸術性を高めた人物として知れれている。

・松尾芭蕉は、日本史上最高の徘徊師の一人である。




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