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日本中を測量して歩き日本地図を初めてつくった伊能忠敬!

日本地図を見ると、とても複雑で変わった形をしている。
日本で初めて正確な日本地図がつくられたのは、江戸時代のこと。





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その頃は、飛行機やましてや衛星などもない時代で、上空から見降ろして地図などつくることもできない。

実際に日本中を歩き周り、細かく計算して地図をつくった人がいる。

その地図は、今とほとんど変わらない正確な日本地図をつくった人物が、「伊能忠敬(いのうただたか)」という人である。

○伊能忠敬とはどんな人物だったの?

伊能忠敬(いのうただたか)は、江戸時代の商人で測量家である。

(伊能忠敬_Twitter)

1800年から1816年まで、足かけ17年をかけて全国を歩いて測量し、「大日本沿海興全図」を完成させた。

日本史上はじめて、国土の正確な形を明らかにしたとされている。

(大日本沿海興全図_www.asobube.com4)

忠敬は、上総国(かずさのくに)今の千葉県で生まれた。
幼名は「三治郎」で、彼の家は酒造家(お酒をつくる家)であった。
彼の他に兄1人と姉1人の3人兄弟で、彼は末っ子として生まれる。

6歳のとき母が亡くなり、父は婿養子(むこようし)であったため、彼の兄と姉をつれて実家に戻っている。
彼は叔父(おじ)のもとに残り暮らすことになる。

彼は小さい頃から宇宙に興味があり、星や太陽や月はどうなっているのか、また地球はどれくらい大きいのかを知りたいと思うようになっていった。

そのためには、計算ができなくてはいけない。
忠敬は大人もびっくりするほど、計算が得意な少年であった。

まわりの大人は、このまま学者になって、勉強を続けていったら、どんなにいいことでしょうと、思っていた。

18歳になった彼は、叔父のいいつけで「小関みち」という女性と結婚することになる。

忠敬は、お酒づくりを一生懸命働き、伊能家は豊かな生活をおくることができた。

しかし、彼はどんな成功しても、子どもの頃からの夢を忘れることができなかった。

50歳になった彼は、仕事のことは子どもにまかせ、翌年には勉強を始めるため、一人で江戸(今の東京)に引越した。

江戸時代の浅草には、今でいう天文台があり、「高橋至時(たかはしよしとき)」に弟子入りして、寝る間を惜しんで勉強した。




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○全国を歩き測量して日本地図をつくった伊能忠敬!

1800年、忠敬が56歳のときに、彼の仲間といっしょに地図をつくろうと旅に出た。

遠く蝦夷(えぞ、今の北海道)から始めて、本州の東海岸から東北、中部地方と、歩いて測量をした。

(伊能忠敬の地図作り_Biglobe)

測量の仕方は、「1歩、2歩、3歩、・・・」と数えて、歩幅を計算して行っていた。

彼は正確な地図をつくるために、同じ歩幅になるように歩き方を何回も練習した。

毎日十里(一里は4キロメートル)、40キロメートル歩いたと言われている。

林の中を歩いたり、岩をよじ登ったりすることもあった。

そうして出来あがった日本の東半分の地図があまりにも見事であったため、幕府は日本地図をつくるように、忠敬を応援した。

忠敬は全国を歩いて測量し終わったのは、1816年で、彼が72歳のときだった。

彼が歩いた歩数は、およそ4000万歩で、これは地球を一周歩く距離と同じ歩数である。

(日記伊能忠敬_livedoor Blog)

後は測量した資料をもとに地図を完成させるだけだったが、彼は74歳で亡くなってしまう。

それを受け継いだ仲間が、1821年に地図を完成させている。

夢は思い続ければ、必ずかなうもの。
忠敬も子どもの頃からの夢を、50歳を過ぎてから、夢をかなえたのである。

○まとめ

・日本で初めて正確な日本地図がつくられたのは、江戸時代。

・今とほとんど変わらない正確な日本地図をつくった人物が、「伊能忠敬(いのうただたか)」という人である。

・忠敬は、お酒づくりを一生懸命働き、伊能家は豊かな生活をおくることができた。

・50歳になった彼は、仕事のことは子どもにまかせ、翌年には勉強を始めるため、一人で江戸(今の東京)に引越した。

・1800年、忠敬が56歳のときに、彼の仲間といっしょに地図をつくろうと旅に出た。

・測量の仕方は、「1歩、2歩、3歩、・・・」と数えて、歩幅を計算して行っていた。

・忠敬は全国を歩いて測量し終わったのは、1816年で、彼が72歳のときだった。

・彼が歩いた歩数は、およそ4000万歩で、これは地球を一周歩く距離と同じ歩数である。




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