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江戸幕府を開き天下をおさめた徳川家康!

徳川家康(とくがわいえやす)と人物の名は、テレビやドラマなどでよく知られています。

昔東京は「江戸」と呼ばれ、およそ260年もの間、政治の中心となる「幕府(ばくふ)」が置かれていました。





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その時代を「江戸時代(えどじだい)」と小学校の教科書(きょうかしょ)で学んだことと思います。
その江戸幕府(えどばくふ)を開いたのが「徳川家康」なのです。

○徳川家康の少年期は人質として過ごす!

徳川家康は、松平元康(まつだいらもとやす)とも呼ばれていて、戦国時代(せんごくじだい)から安土桃山時代(あづちももやまじだい)にかけての武将で戦国大名(せんごくだいみょう)であった。

家系(かけい)は三河国(みかわのくに、今の愛知県南東部)で生まれ、松平広忠(まつだいら ひろただ)の長男として生まれる。
幼名は「竹千代(たけちよ)」である。

(竹千代_Yahoo!ブログ )

元信(もとのぶ)や元康(もとやす)を名乗っていたが、今川氏から独立後、家康と改名(かいめい)している。

家康が生まれた時代は、自分たちが生き残るために、弱い大名が強い大名のところへ、人質(ひちじち)として自分の子どもや母親を、あずけるということはよくあった時代である。

東は駿河(するが、今の静岡県)の今川(いまがわ)、北は尾張(おわり、今の愛知県北西部)の織田(おだ)というように、力の強い武将(ぶしょう)たちに囲まれていた時代だった。

そこで家康6歳の頃、今川家に人質としてあずけられることになった。

ところが家康が今川家に向かう途中(とちゅう)、だまされて織田家のところへ連れていかれてしまう。

織田家で2年間人質生活(ひとじちせいかつ)を過ごした家康は、そのとき少年時代の織田信長(おだのぶなが)とも出会うことになる。
家康が織田家にいる間、父・弘忠は部下に殺されてしまう。

やがて家康は故郷(ふるさと)の岡崎城(おかざきじょう)に戻ることができたが、今度は今川家のところへ送られ、19歳まで人質として生活することになった。

今川家をおさめていた今川義元(いまがわよしもと)は、松平家を今川家に従わせることになった。

(今川義元_戦国武将列伝Ω)

そのため家康は、人質としてはいえ松平家の後継(あとつぎ)ぎとして大切に扱われ、武士になるための教育(きょういく)を受けることができた。

その頃三河国(みかわのくに)では、松平家の家臣(かしん)たちは苦しい生活をしながらも、家康が戻る日のために、必死にお金を蓄(たく)えていた。

○「桶狭間の戦い」をきっかけに独立することに!

1560年、今川義元(いまがわよしもと)はついに天下取(てんかと)りを目指(めざし)し、京都(きょうと)に向かうことを決意(けつい)する。
その途中で、立ちふさがるのが尾張(おわり)の織田家(おだけ)であった。

その頃、織田家の後を継いだ織田信長は、今川に比べて兵力(へいりょく)では劣(おと)っていた。
家康も今川といっしょに、家来として京都に向かっていた。

しかし今川が桶狭間(おけはざま、今の愛知県)についたところで、織田軍の不意打(ふいう)ちにあい今川義元は、倒されることになる。

義元が倒された今川軍はバラバラの状態で、家康にとっても今川家から独立する機会(きかい)でもあった。
こうして家康は岡崎城に戻ることができた。

そして1562年には、信長と同盟(どうめい)を組み、天下統一(てんかとういつ)を目指して戦うことを決めた。




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○家康は、天下取りの機会を待ち続ける!

織田信長と手を組んだ家康は、まず地元の三河国(みかわのくに)の統一(とういつ)を果たすことになる。

さらに家康は、今川のおさめていた遠江(とおとうみのくに、今の静岡県西部)を領地(りょうち)として、力をつけていった。

しかし1572年、甲斐国(かいのくに、今の山梨県)、信濃国(しなののくに、今の長野県)をおさめていた武田信玄(たけだしんげん)が、天下取りを目指し、京都に兵を進めていた。

(武田信玄_ITmedia)

信玄はとても強く、信長も「信玄とは戦うな!」と家康に伝えていたが、家康にもプライドがあった。

今の静岡県にある三方ヶ原(みかたがはら)で、家康は信玄と戦うのであったが、家康はボロボロに負けて、大敗(たいはい)してしまうのであった。

必死になって城に戻る家康であったが、そのときのことを忘れないように、絵師(えし)に自分の情(なさ)けない姿を描かせている。

(徳川家康_Wikipedia)

しかし信玄は京都にたどり着けず、途中で病気のため亡くなってしまうのであった。

信玄の嫡男(ちゃくなん)である武田勝頼(たけだかつより)が攻めてきたが、家康は信長と力を合わせ、「長篠の戦い(ながしののたたかい)」で、鉄砲を使い勝利をおさめた。

信長も力をつけていき、天下統一は目前であった。

そのとき1582年、家臣の明智光秀(あけちみつひで)によって、倒されてしまう。

信長の死後、明智光秀を倒した、羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)が、信長の跡(あと)をついだ。

家康は、秀吉と戦うことになった。
今の愛知県にある小牧(こまき)と長久手(ながくて)で、家康は秀吉と戦うが、決着がつかなかった。

勢いのある秀吉は、誰も止めることができなかった。
結局、家康は秀吉の家来(けらい)になる道を選ぶことになる。

秀吉は1590年、最後の大きな敵であった関東の大名である「北条氏政(ほうじょううじまさ)」を倒し、ついに天下統一を果たした。

家康は、秀吉は北条がおさめていた関東(かんとう)を任されることになった。

当時の関東平野は、湿地帯(しっちたい)でが多く存在し、それを埋めるの作業も大変であった。

後に、家康は全国の大名に命じて、湿地帯を埋める作業を行っている。

(関東平野_Yahoo!ブログ)

○家康は260年続いた時代を築き上げた

そして1598年、秀吉が亡くなり、家康は秀吉の家臣として、高い地位についていた。

家康は豊臣に代わって日本統一を目指すことになった。
1600年、それに反対する豊臣家に味方する「石田三成(いしだみつなり)」ら西軍と、家康に味方する東軍との間で「関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)」が起こった。

この戦いに勝利した家康は、1603年ついに江戸幕府(えどばくふ)をつくり、天下統一に成功したのであった。

(江戸幕府_Wikipedia)

「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ほととぎす」信長、秀吉のもとで、がまんにがまんを重ねてその日を待ち続けた家康は、ついに1615年には、豊臣家を滅ぼした。

そして自分が築いた江戸幕府が末永く続くことを願い、1616年に、この世を去った。

○まとめ

・江戸幕府を開いたのが「徳川家康」である。

・徳川家康は、松平元康とも呼ばれていて、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で戦国大名である。

・三河国で生まれ、松平広忠の長男として生まれる。

・徳川家康の少年期は織田家や今川家の人質として過ごす。

・義元が倒された、家康にとっても今川家から独立する機会となった。

・そして信長と同盟を組み、天下統一を目指して戦うことを決める。

・信玄の嫡男である武田勝頼が攻めてきたが、家康は信長と力を合わせ、「長篠の戦い」で鉄砲を使い勝利をおさめた。

・家康は、秀吉は北条がおさめていた関東を任されることになった。

・1600年、「石田三成」ら西軍と、家康に味方する東軍との間で「関ヶ原の合戦」で勝利をおさめた。

・家康は、1603年ついに江戸幕府をつくり、天下統一に成功した。




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