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チンギス・ハンが源義経だったとう伝説は本当!?

チンギス・ハン(カン)が源義経(みなもとのよしつね)だったという、伝説(でんせつ)が存在し、今も語(かた)り継(つ)がれている。

そもそもなぜ、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンと源義経だったいう伝説が生まれたのであろうか?





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義経は兄である将軍(しょうぐん)・源頼朝(みなもとのよりとも)に追われ、北へ北へと逃げて、蝦夷(えぞ、今の北海道)へ渡り、さらに満州のモンゴルへ渡って、そこでチンギス・ハンとしてモンゴル帝国を築いたと説がある。

○本当に源義経はチンギス・ハンだったのか?

源義経は、兄・頼朝(よりとも)に追い詰めら、東北の平泉(ひらいずみ)・衣川方面へ逃げて、そこで死んだということが説が、有力である。

%e6%ba%90%e7%be%a9%e7%b5%8c_asios(絵画:源義経_ASIOS)

ところが義経は生き延びて、北へ逃れ北海道(ほかいどう)を経て、中国のモンゴルへ行き、そこで自らの名を隠して、チンギス・ハンとなって、モンゴル帝国(ていこく)を築いたという説である。

その逸話(いつわ)は、江戸時代・中期(ちゅうき)に林羅山(はやしらざん)や新井白石(あらい はくせき)によって真剣に歴史問題として議論(ぎろん)されることになった。

水戸黄門(みとこうもん)で知られる徳川光圀(とくがわみつくに)は蝦夷(えぞ)、今の北海道まで探検隊(たんけんたい)を派遣(はけん)して調査をしている。

徳川光圀の「大日本史(だいにほんし)」にも注釈(ちゅうしゃく)扱いながらも、死んだ義経の首は偽物(ニセモノ)で、義経は蝦夷(えぞ)に逃れて神の存在として崇(あが)めらたとう、生存説を記録している。

さらに義経の子孫(しそん)が清(しん)という国をつくったなどという話も流行(りゅうこう)した。

明治初期には、アメリカ人教師のグリフィスの影響(えいきょう)を受けて、この説を論じるなど、現代人以上に深く信じられていた。

シーボルトも日本で、義経が大陸に渡りチンギス・ハンになったと主張するなど、多くの信奉者(しんぽうしゃ)を生んだのである。

チンギス・ハンについては、ほとんど資料が残されていないことや不明な点が多いことで、この逸話(いつわ)が存在している。

それは蒙古民族(もうこみんぞく)は文字として残されていないため、文献(ぶんけん)がほとんど残っていない。

義経は騎兵(きへい)の機動力(きどうりょく)を生かして奇襲(きしゅう)を得意としていた。

これは、チンギス・ハン率いるモンゴル騎兵の戦い方も奇襲が得意としていたので、年代が同じ2人が重なったものであると思われる。

○モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンとは?

中国の隣にあるモンゴルは、昔はとても大きな国であった。

その国の名は「モンゴル帝国」で、その帝国を築いたのが「チンギス・ハン」という人物である。

%e3%83%81%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%82%ab%e3%83%b3_wikipedia(絵画:チンギス・カン_Wikipedia)

ここでチンギス・ハンまたは、チンギス・カンとも呼ばれている。

モンゴル語の発音で「ハ」と「カ」の間の発音であることから、どちらでも呼ばれるようになった。

「カン」や「ハン」は、それぞれ部族の長を表わし、統合する地位として古くから呼ばれている。

本書では、チンギス・ハンと呼ぶことにする。

チンギス・ハンは、子どもの頃はテムジンという名であった。

父はモンゴル族の族長(ぞくちょう)でテムジンが13歳のときに、近くの民族のタタール族に殺されてしまう。

この頃のモンゴルはたくさんの部族に分かれて生活していて、お互いの部族が争いを繰り返していた。

族長をなくしたモンゴル族はバラバラになり、テムジンは母親と兄弟4人で暮らすことになる。

テムジンは父の仇(かたき)をとろうと、力強く生き、たくましい大人へと成長していった。

テムジンが21歳のときに、バラバラになった一族を呼び集め、モンゴル族の族長となるのである。

強敵(きょうてき)であったタイチウト族やメルキト族、父親の仇(かたき)であるタタール族などを、次々に滅ぼしていった。

ついには1206年にモンゴル統一を果たし、モンゴル帝国の王に選ばれ、「チンギス・ハン」と名前に改名する。

それからチンギス・ハンは、モンゴル帝国を強くするために、親衛隊(しんえいた)を置いたり、軍を鍛(きた)えたりした。

チンギス・ハンは、人々の生活に規則(きそく)をつくり、厳(きび)しく守らせたのである。

規則を破るものは死刑にすることもあったので、部族の人たちは、規則に背(そむ)くことがなかった。

強くなったモンゴル帝国は、やがて他の国との争いを始める。

1211年、チンギス・ハンが44歳のときに中国の「金」という国に攻め入り、中国の都である北京(ぺきん)を手に入れたのである。

さらにモンゴルの西にある南ロシアにも攻め入った。

%e3%83%a2%e3%83%b3%e3%82%b4%e3%83%ab%e5%b8%9d%e5%9b%bd_asios(地図:モンゴル帝国_ASIOS)

モンゴル帝国軍は、遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)であったので、テントで暮らし、どこへでもすぐに移動できたのである。

また馬に乗るのが得意で、馬に乗りながら剣をふるい、弓を引いたりするのも上手(うま)かった。

巨大なモンゴル帝国をつくったチンギス・ハンは、58歳のときに、子どもに国を分け与え、60歳のときに病気で亡くなったとされている。

チンギス・ハンの築いたモンゴル帝国は、東と西の国間で行き来が便利になり、たくさんの人が往来(おうらい)することができたのである。




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○チンギス・ハンの子孫が世界に1600万人いるって本当?

日本の大相撲(おおずもう)の横綱(よこづな)は、モンゴル出身が多い。

これはチンギス・ハンの松枝(まつえい)であるとも言われている。

今も世界で1600万人がチンギス・ハンの直系の子孫であることが判明し、話題を読んでいる。

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英国のレイセスター大学のマーク・ジョブリング教授らの遺伝学研究チームが、「Nature」で発表した論文に端を発している。

研究によれば、アジア人男性の約4割が、チンギス・ハンを含む11人のDNAを受け継いでいるという。

具体的には、DNAの中の男性にしかない「Y染色体(せんしょくたい)」の塩基配列をサンプリング調査したことである。

分析の結果、11のグループに分けられることが分かった。

サンプルでは男性の約4割にあたる人が、11のグループのいづれかかに分類されるという。

そこで、世界で1600万人がチンギス・ハンの松枝であることになった。

○まとめ

・昔チンギス・ハンが源義経だったという、伝説が存在し、今も語り継がれている。

・源義経は、兄・頼朝に追い詰めら、東北の平泉・衣川方面へ逃げて、そこで死んだということが説が有力。

・義経は生き延びて、北へ逃れ北海道を経て、中国のモンゴルへ行き、そこでチンギス・ハンとなって、モンゴル帝国を築いたという説である。

・水戸黄門で知られる徳川光圀は蝦夷、今の北海道まで探検隊を派遣して調査をしている。

・義経の子孫が清という国をつくったなどという話も流行した。

・チンギス・ハン率いるモンゴル騎兵の戦い方も奇襲が得意としていたので、年代が同じ2人が重なったものであると思われる。

・1206年にモンゴル統一を果たし、モンゴル帝国の王に選ばれ、「チンギス・ハン」と名前に改名する。

・1211年、チンギス・ハンが44歳のときに中国の「金」という国に攻め入り、中国の都である北京を手に入れた。

・巨大なモンゴル帝国をつくったチンギス・ハンは、58歳のときに、子どもに国を分け与え、60歳のときに病気で亡くなった。

・チンギス・ハンの子孫が世界に1600万人いる。




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