江戸幕府の基礎を築いた将軍・徳川家光とは、どんな人!?
日本の歴史の中で、最も長い江戸時代は約260年あまり続いたのだ。
江戸時代は1603年に徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった時から、1867年の江戸末期に大政奉還した徳川慶喜(とくがわよしのぶ)までの時代を言う。
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安土桃山時代でも戦国時代に引き続き、江戸幕府となっても、あちこちで戦いが起きていた時代。
それが徳川家光の時代になると、戦いも無く平和な時代が続くことになる。
どうして、戦いのない平和な時代が260年も続いたのか?
○徳川家光とは、どんな人?
江戸幕府をつくったのは、徳川家康である。
しかし、その江戸幕府の基礎を築いたのが、三代将軍「徳川家光(とくがわいえみつ)」と言われている。
(絵:徳川家光画像 江戸時代前期)
家光は、父である二代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)とお市の方の娘で、織田信長の姪(メイ)ににあたる江姫との間に生まれている。
長く続いた15人の将軍の中で、正室の子は家康、家光、慶喜の3人のみとされている。
家光は、子供のころは体が弱く、とても大人しい子どもだったと言いう。
家光は、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられ、1623年に将軍となるが、本格的に政治に取り組むようになったのは、1632年に父・秀忠が亡くなってからのこと。
家光は、まず江戸幕府の組織改革から始める。
老中(ろうじゅう)・若年寄(わかとしより)、奉行(ぶぎょう)、大目付(おおめつけ)といった、江戸幕府内での役職を定めた。
(図:日本の歴史_gakusyu.shizuoka-c.ed.jp)
家光は、戦(いくさ)の経験もなかったが、祖父・家康から幼少のころから、将軍になるように言われていたので、家光本人も「生まれながらの将軍」として自覚していたのである。
それによって、家康とともに戦い、江戸幕府を築いた大名よりも、家光の方が上であることを示した。
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○「参勤交代」と「鎖国」は家光が始めた!
よく時代劇で、大名たちが参勤交代で町を歩くときに、「下に下に」と、町民は土下座して大名たちが通りすぎる姿を目にする。
(絵:参勤交代_star-nagoya1.jugem.jp)
家光が定めた制度の中で、一番大きなものは「参勤交代」と言われている。
全ての大名の妻と子を江戸に住まわせ、各地の大名は一年ごと江戸にくるようにと、江戸と各大名が納める土地を行ったり来たりしていたのである。
この「参勤交代」の趣旨としては、江戸に各大名の妻子をおくことで、江戸幕府に逆らえないようにしたものとされている。
また「参勤交代」には、多額のお金が使われている。
お金を使わせることで、地方の各大名の勢力を衰えさせる狙いもあった。
そして、もう一つは「鎖国」であるとされている。
家光は、当時日本と交流のあった中国とオランダなどであるが、幕府が定められた国以外との交流を禁じたのである。
(絵:鎖国_www7a.biglobe.ne.jp)
当時、外国船の多くは長崎に入港していた。
海外の珍しいものなどは長崎に入り、それで長崎が儲かる仕組みとなっていたので、家光は、鎖国をしたものと言われている。
この鎖国は、江戸時代末期にペリーが黒船でやってきたときに、鎖国のせいで、外国のことがわからなくなったとも言われている。
しかし、家光の礎があったからこそ、江戸時代が260年間平和な時代があったと言っても過言ではない。
他国の侵略を許さず、町人たちはのびのびに暮らし、歌舞伎や落語、浄瑠璃など、たくさんの日本独特の文化が生まれることになった。
○まとめ
・江戸時代は260年間も続く平和な時代であった。その基礎を築いたのが徳川家光と言われている。
・家光は、子供のころは体が弱く、とても大人しい子どもだった。
・家光は、まず江戸幕府の組織改革を行った。
・家光の行った制度の中で一番大きなものは「参勤交代」と「鎖国」であると言われている。
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