鎌倉幕府を倒した「後醍醐天皇」はどんな政治をしたの?
奈良県の吉野は桜の名所として有名な場所で、ここは後醍醐天皇(ごだいごてんのう)によって開かれた南北時代の「南朝の里」として知られている。
後醍醐天皇は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて、正統な第96代天皇である。
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天皇として在位してから、二度の廃位するも、鎌倉幕府に不満を持ってようになり、足利尊氏(あしかが たかうじ)とともに幕府を倒し、建武新政を行った天皇として有名である。
後醍醐は、1308年に花園天皇の即位に伴い、皇太子となっている。
その後、花園天皇の譲位を受けて、わずか31歳で天皇に即位している。この30代での天皇即位は、250年ぶりであった。
(絵:後醍醐帝_blogs.yahoo.co.jp)
○後醍醐天皇は2度島流しにされる!
当時鎌倉幕府に反感を持っていた後醍醐天皇であったが、統幕計画が発覚して、幕府に追われることになる。
後醍醐は、三種の神器を持って挙兵するも捉えられてしまう。
(写真:三神器_ja.wikipedia.org)
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡すると天皇の在位を廃位し、皇太子であった後光厳天皇を即位させるのであった。
(絵:北朝第4代天皇 後光厳天皇_tokitank.com)
捕虜(ほりょ)となった後醍醐は、島根半島の隠岐諸島(おきしょとう)に、島流しとなった。
鎌倉幕府の執権職(しっけんしょく)をしていた北条氏であったが、権力を持つようになり、それに反感を持った後醍醐天皇は、隠岐島から脱出して、足利尊氏が後醍醐に味方し、北条氏を滅亡することになる。
これにより、鎌倉幕府は崩壊する。
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○後醍醐天皇の「建武の新政」
帰京した後醍醐天皇であったが、後光厳天皇(ごこうごん てんのう)の即位を否定して、人事を全て無効にするように「建武の新政」を開始する。
都に戻った後醍醐天皇は、武士や貴族の力を弱くして、天皇中心の政治を行った。その時代の年号をとって「建武の新政」と呼ばれるようになった。
ここで、南北に分かれた天皇による摂政が行われることになっていく。
鎌倉時代の後期、日本の朝廷は南北に分かれ、京都の北朝と、奈良の南朝の2つに分かれることになる。
この時代「南北朝時代」と呼ばれ、南朝の初代天皇となった後醍醐天皇と、北朝の後光厳天皇と日本を二分する時代へとなっていく。
○「建武の新政」の失敗と南北時代のはじまり!
天皇中心の政治に不満を持った武士や貴族たちから不満が広がり、足利尊氏が朝廷に対して兵を挙げることになる。
後醍醐天皇は、新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)らに、尊氏討伐の指示するも、結局負けてしまう。
足利尊氏によって朝廷の新しい天皇が即位することになった。
後醍醐天皇は花山院に囚われることになる。
しかし後醍醐天皇は花山院を脱出して、奈良の吉野に逃れることなった。
後醍醐天皇はそこで新しい朝廷を開き、自ら天皇の位につくことになる。
そこから各地に使者送り北朝との戦いが、およそ60年もの長い戦いが始まった。
1339年、後醍醐天皇は足利義満(あしかが よしみつ)の提案を受け入れ、義良親王に天皇の位を譲り、その後52歳で亡くなる。
普通は天皇のお墓は南向きであるが、後醍醐天皇の御陵(ごりょう)は、北向きに造られているという。
(写真:後醍醐天皇陵_blog.livedoor.jp)
これは、北朝のある京の都に帰りたいという、願いが込められているという。
○まとめ
・後醍醐天皇が摂政した、奈良県の吉野は「南朝の里」として桜の名所で有名である。
・後醍醐天皇は、二度に渡る廃位するも鎌倉幕府倒し、自ら天皇による摂政を行った。
・後醍醐天皇はわずか31歳という若さで即位している。
・鎌倉幕府に反感を持っていた後醍醐天皇は島根半島の隠岐諸島に島流しされる。
・島から脱出した後醍醐天皇は、足利尊氏とともに北条氏を滅ぼした。
・帰京した後醍醐天皇は「建武の新政」を開始する。
・それを反感した後光厳天皇は、南北に分かれて摂政するようになる。
・これより鎌倉時代が終わり、南北朝時代の幕開けとなった。
・足利義満により南北を統一され、後醍醐天皇は52歳の若さでこの世を去った。
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