『真田家』親・兄弟で二分して関ヶ原で戦っていた!
NHKの大河ドラマ「真田丸」で日本中が有名になった、「真田幸村」として知られる真田信繁であるが、実は関ヶ原の戦いで親・兄弟と二分して戦っていたのです。
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戦国時代の武将に中でも、とくに人気が高いのが「真田信繁(幸村)」です。
(絵:真田信繁(幸村) ameblo.jp)
幸村は武田信玄がおさめている、信濃国(今の長野県)で生まれている。
祖父である「真田幸隆」が、武田信玄とともに信濃国の領土を守り、戦い続けていた。
(絵:真田幸隆 ameblo.jp)
幸村の父である「真田昌幸」も、武田側に仕えていたのです。
(絵:真田昌幸 foreisoku.com)
もとは真田家は徳川方についていたのですが、幸村の祖父である真田幸隆が徳川軍の援軍が来なく、窮地に立たされることがあります。
そこへ武田軍の援軍がやってきて、真田を助けることになるのです。
それ以来、真田家は武田家と共に戦うことになっていきます。
○真田昌幸・幸村・信幸がなぜ親子で二分して戦うことになったのか?
父の真田昌幸には、長男である「信幸」と「幸村」がいます。
(真田家 家系図)
三人は、徳川家康の会津征伐軍に加わっていたが、石田三成から「内府ちかいの条々」を受け取ることになる。
その書状には、家康の横暴が13カ条に渡って事細かく書かれていたのです。三人はこのまま家康を征伐するか、見方につくか近くの民家を借りて家族会議をすることになるのです。
長男である信幸は、徳川方につくことを主張している。
(絵:真田信幸 www.twwiki.com)
信幸の妻は、家康方の本多忠勝の娘であった。それで信幸は「東軍につく」と出張します。
幸村の妻は、豊臣方についていた大谷吉継の娘であった。それで幸村は「西軍につく」と主張します。
父である昌幸は、「真田家は内府にも秀頼(秀吉の子)にも特別な恩を受けていない、今こそ大望を遂げるのが本懐」として、今まで信長、秀吉についてきて、裏切ることもできないとした。
そこで、「親子で別れて、家名を残す」ことを決めるのです。
関ヶ原の戦いにおいて、親子で東軍・西軍に分かれて天下分け目の戦いが始まったのです。
○徳川秀忠は上田城を攻撃したために2代目将軍とはならなかった!
真田が徳川方につかないことに怒った家康は、2代目である秀忠に上田城攻めを命じたのです。
(絵:徳川秀忠 ja.wikipedia.org)
秀忠は、「近日上田を攻めて落城次第上洛します」と黒田長政へ書状を送っている。
しかし、真田が守る鉄壁の上田城を落とすことができない。
5日間足止めを食らった秀忠は、上田城を落とすことを断念し、家康のもとへ戻る。
家康は秀忠の戻るのを待たずに、関ヶ原へと出発してしまうのです。
9月15日関ヶ原について東西を分ける戦いが始まった。
その5日後、ようやく秀忠は関ヶ原に到着したが、家康は面会を拒否するのであった。
このときより、秀忠は将軍としての地位を受けることができなかったとされている。
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○幸村の子孫は生きていた!
真田幸村には、11人の子どもがいたとされています。
当時徳川に逆らった武将の家族は皆、自害させられている時代にどうして、子孫がいたのか。
大阪夏の陣で真田幸村は、命を落とすことになります。
豊臣方についた、真田家の子孫も自害にさせられるはずでした。
しかし本来敵である「伊達政宗(だてまさむね)」が幸村の娘と次男を保護し、幸村の子孫を守ることになります。
(絵:伊達政宗 twitter.com)
保護された娘は、伊達の家臣である片倉小十郎の側室に、次男は伊達家の家臣になったと伝えられている。
真田家は二つあり「本家真田家」と「仙台真田家」として呼ばれています。
○まとめ
・真田幸村は武田信玄に仕えていた。
・真田昌幸・幸村・信幸は、関ヶ原において親子・兄弟で二分して戦っていた。
・徳川秀忠は上田城を攻めきれずに、関ヶ原に遅れて参戦し家康を怒らせてしまう。
・真田幸村に子孫が仙台にいて、「仙台真田家」と呼ばれている。
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