アインシュタインのノーベル賞は「相対性理論」ではなかった!
皆さんご存じの「アインシュタイン」ですが、「アインシュタイン」というと「一般相対性理論」は、あまりにも有名です。
しかし、「アインシュタイン」が「ノーベル賞」を受賞したのは、「特殊・一般相対性理論」ではなく、1905年「光電効果の法則」で受賞しています。
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相対性理論は、それまでの物理学を根底から変えてしまうような革新的な理論だったのです。
しかし、ノーベル賞の当時の選考委員は、この理論をどう評価していいものか分からず、自信が持てなかったのである。
またノーベル賞を受賞した「アインシュタイン」は、1922年に日本に、夫婦で訪れています。
今でも、「アインシュタインの脳」は保存されているという話もある。
アインシュタインが舌を出している写真は、あまりにも有名です。
(写真:tagenyu.info)
これは、アインシュタインの72歳の誕生日のときに、INS通信社の記者が「笑ってください」ということで、恥ずかしかったのか、このとき舌を出して、「あかんべー」をしたと伝えられています。
○アインシュタインがノーベル賞を受賞した「光電効果の法則」とは?
光電効果は「ヘルツ」によって発見されたものですが、当時その機構は、なかなか判明しなかった。
しかし「アインシュタイン」の光電子仮説によって初めて解明されることになった。
固体表面から放出される光電子のエネルギーは、以下の式で表すことができる。
<E=hν-W>
(図:量子化学_kusuri-jouhou.com)
νは入社光の振動数、Wは仕事関数と呼ばれる量で、固体から電子が必要とするエネルギーとなる。
○役所で働きながら、物理学の研究をしていた!
アルベルト・アインシュタイン(1879年~1955年)は、ドイツで生まれ、ユダヤ人で物理学者である。
(写真:meigen-ijin.com)
アインシュタインは、5歳頃まではほとんど言葉を話すことなかったと言われている。しかし数学の勉強はとても、できたと言われている。
12歳になる頃には、高校生が習うほどの難しい数学を、自ら解いていたそうです。
17歳でチューリッヒ連邦工科大学という優秀な大学に入学するも、ほとんど授業には出席していなかったと言います。
自分の好きな分野の勉強に熱中するあまり、他の分野の成績は悪かった。中でも物理の成績はとても悪かったと言います。
不思議ですね。アインシュタインは物理学でノーベル賞を受賞するまでになったのですが、当時は物理学が苦手だったなんて。
そのため、アインシュタインは大学の助手として働くことができず、友だちの紹介で、スイスの特許庁で勤めることになったのです。
アインシュタインは役所で働きながら、自分の研究を続けました。
(写真:www.kido-dc.jp)
しばられることが大嫌いだった、アインシュタインは「大学の助手になっていたら、こんなふうに自由に研究することは、できなかった」と後に語っています。
○当時無名なアインシュタインは学者に認められていなかった!?
1905年の26歳のときに、「特殊相対性理論」など、次々と新しい理論を発表していたアインシュタインですが、学者たちの間では、アインシュタインの理論を認めようとしなかたのです。
それも役所で働きながら研究していた、無名なアインシュタインは、異論を唱える学者もいたのです。
そんな中で、当時最高の物理学者の一人である、「マックス・プランク」が、アインシュタインの考えを認めたことで、彼の名は学者の間でも知られるようになっていきました。
それから1909年に、チューリッヒ大学の准教授となることができたのです。アインシュタインは、ついに本格的に物理学者の仲間入りをします。
研究に打ち込んでいたアインシュタインですが、ついに1916年に世界を大きく変えた「一般相対性理論」を発表することになります。
さらに、1921年には光を粒として考えることで、さまざまな現象を説明した「光電効果の法則」で、ノーベル賞を受賞し、世界的に有名となっていきます。
その後第二次世界大戦が始まり、ユダヤ人であったアインシュタインは、故郷ドイツを追われ、アメリカに渡ることになります。
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○アインシュタインは日本を訪れていた!
1922年10月には日本に夫婦で訪問しています。訪日したアインシュタイン夫婦は、43日間滞在しています。
大正時代に当時一世を風靡した総合雑誌「改革」の発行をしていた山本実彦(やまもとさねひこ)社長によって、アインシュタインを招致する計画を立てていた。
ノーベル賞を受賞したことで、アインシュタインは政治的に利用されることも多く、彼の言動は気を配ることもあったという。
そん中で山本社長は「日本へ来てみたらどうか」と誘うのです。
彼は、「もし、この機会を失ったらならば、もう日本へ行く機会は来ないかも知れない。この機会を眼前に見ながらそれを利用しなかった、という後悔は一生忘れられまい」と言った。
その言葉を受けて、アインシュタインは日本へ訪れることになったのです。
(写真:blog.nihon-syakai.ne)
日本を訪れてから、東京をはじめ仙台、愛知、京都、神戸、九州と講演を行った。ノーベル賞を受賞していたアインシュタインを一目見ようと、集まる民衆は多かった。
(写真:spork.jp)
1カ月以上日本に滞在し、日本を去り帰国の途に着いた。
(写真:アインシュタイン博士夫妻が日本で最後に泊まった部屋)
○アインシュタインの理論が広島原爆に使われることに!
アインシュタインは、特殊相対性理論の帰結として、質量とエネルギーの等価性について発表している。
エネルギー(E)=質量(m)×光速度(c)の2乗
(E=mc2)
(図:www.ttrinity.jp)
これは等価性の帰結として、質量の消失はエネルギーの発生であり、エネルギーの発生は質量の消失を意味する。
したがってエネルギーを転換するれば、無から質量が生まれるというもの。
この「E=mc2」が原爆の理論に使われるとは、アインシュタインは夢にも思わなかったことでしょう。
いよいよ太平洋戦争を終結させるために、アメリカは原爆の開発に急いでいた。
このエネルギーの等価性を説いたアインシュタインに、原爆の使用の許可を得るため、承認を求めた。
アインシュタインは、それが何に使われるのか知らされないまま、承認にサインをしたのである。
1945年8月5日、原爆をのせた飛行機が、日本に向かっていた。
翌6日の8時15分、広島上空580mから原爆を投下。
一瞬で広島は火の海となり、建物は爆風で吹っ飛んだ。人々が焼けただれ、倒れて死んでくいく。
その頃、アイシュタインに向かった記者たちは、「日本に原爆が投下された」ことを伝える。
アイシュタインは、一言「オーッ」と言っただけで、後は何も言わなかったと言う。
自分の理論が証明されたことになったのだが、アインシュタインが日本を訪問して、信頼関係もあった。
そん中で、アインシュタインは何を思ったのか。
○アインシュタインの脳が死後40年も研究されていた!
アインシュタイン脳が、死後40年も保存されて研究されていたことはご存じでしょうか。
家族の許可を得ずに、秘密にアインシュタインの脳が解剖され取りだされていたのです。
(写真:アインシュタインの脳_history.monovtube.com)
取り出しは脳は、トーマス・ハーベイ博士によって、解剖され40年間も研究に使われていたのです。
研究によると、脳は通常右脳と左脳に分かれて大きく溝ができています。しかし、アインシュタインにはその溝が、一般の人の脳よりも、浅かったということです。
人間の脳は、右脳と左脳に分かれていて、右脳は感覚・イメージなどで、左脳は文字は言語を司っています。
左脳と右脳はそれぞれ独立した機能となりますが、アインシュタインは、恐らく右脳と左脳の情報伝達は、普通の人よりも早かったのではないかということを意味しています。
またアインシュタインの脳は、通常の成人男性の脳よりも軽かったと言われています。
一般の成人男性の脳は1350~1500グラムで、女性は1200~1250グラムとなっています。
標準体型で体重の約2%ほどに相当します。
しかし20世紀最大の天才と言われるアインシュタインの脳の重さは、「1230グラム」だったことが研究の結果分かっています。
男性としては、かなり軽かったことが分かります。
○まとめ
・アインシュタインは「一般相対性理論」はあまりにも有名である。
・アインシュタインは「一般相対性理論」でノーベル賞を受賞していなかった。
・アインシュタイン「光電効果の法則」でノーベル賞を受賞していた。
・役所で働きながら、物理学に研究をし、「一般相対背理論」を発見している。
・当時無名のアインシュタインは、学者から認知度は低かった。
・アインシュタイン夫婦は、1922年に日本に訪れている。
・アインシュタインの理論が、広島原爆に使われることになった。
・アインシュタインの脳が死後40年問も研究されていた。
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