若き戦士たち「白虎隊」の悲劇!
白虎隊(びゃっこたい)は、会津戦争のときに、会津藩が組織した16歳から17歳を中心の武家男子で組織された部隊である。
これは会津藩と新政府軍との戦いであった。
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1868年(慶応4年)に、鳥羽・伏見の戦いで戌辰戦争(ぼしんせんそう)が勃発し、会津藩は旧幕府(江戸幕府)の勢力の中心とみなされ、新政府軍と戦っていた。
白虎隊は予備兵力として組織され、340名程度小部隊であった。
(写真:会津】激動の時代に散った白虎隊_www.travelbook.co.jp)
前の年の1867年11月9日に、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権を明治天皇に返上し、これで明治政府が実権を握ることになった。
しかし、当時は江戸幕府を復活させようとする動きがあり、各地で明治政府との戦いが勃発している時代であった。
かつて、豊臣秀吉が政権をしていた。その終わりの時期に大阪冬の陣、大阪夏の陣などで、江戸幕府と戦った時代もあった。
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○会津藩と新政府軍の激しい戦い!
徳川家と結びつきが強かった会津藩(今の福島県)は、旧幕府の勢力として、新政府軍と激しく戦っていた。
当時会津藩は、フランスの軍隊を取り入れていた。
年齢別に編成され、白虎隊はその中で16歳~17歳、朱雀隊は18歳~35歳、青龍隊は36歳~49歳、玄武隊は50歳以上というように組織されていた。
一番年齢の低い白虎隊の中には、もっと幼い少年も含まれていたようだ。
会津藩の主流は、あくまで朱雀隊と青龍隊であった。しかし、会津藩が戦いに不利になると、城を守っていた白虎隊も戦いに参加することになった。
白虎隊340人のうち、師中二番隊(しちゅうにばんたい)と言われる、42人の隊士が戸の口原(とのぐちはら)で、激しい戦いに参戦することになる。
しかし新政府軍の勢いはすさまじく、生き残った20人の兵士は、会津盆地の東にある飯盛山へと逃れるのであった。
飯盛山から、会津藩の城である鶴ヶ城(つるがじょう)を見降ろせるのである。
お城が燃えているのを見た、兵士20人は落城したものと思ったのであった。
もやは帰る場所がないと悟った、隊士20人は覚悟を決め、飯盛山で自らの命を絶ってしまうのである。
(絵:日本のテレビで白虎隊物語_matome.naver.jp)
○「白虎隊の悲劇」として、後世に残ることに!
このことが後世に「白虎隊の悲劇」として、人々に広く知られるようになっていった。
隊士の一人である飯沼貞吉(いいぬま さだきち)は、地元に人に助けられている。
(写真:飯沼貞吉_www.yae-mottoshiritai.jp)
彼は晩年、次のようなことを語っている。
「城が燃えていることに、それで絶望し命を絶ったのではない。」
「会津藩が負けるのは確実だった。そこで生きて敵に捕まるよりは、自ら命を絶つ方を選んだのだ」という事実を告白している。
彼らは最期まで立派に戦った、最後の武士であったのだ。
白虎隊の悲劇は、これから大人になって活躍していく勇士たちであったが、なんでもない日常の幸せや、平和の大切さを教えてくれたのである。
しかし日本はその後太平洋戦争を起こし、白虎隊のような若き兵士を戦争へと駆り出し、戦争の犠牲となったことは、なんとも悲しく愚かな行為を繰り返すことになってしまった。
○まとめ
・白虎隊は会津藩が組織した、16歳から17歳を中心の部隊である。
・会津藩と新政府軍(明治政府)との戦いである。
・城を守っていた白虎隊は、戦いが不利になり参戦することになる。
・白虎隊の中の師中二番隊12人が、飯盛山に逃げることになり、会津藩の城が燃えているのを目にする。
・隊士20人は落城したものと思い、自ら命を絶ってしまう。
・隊士の一人が生き残り、後世に敵に捕まるよりは自ら命を絶つことを選んだのだと述べている。
・白虎隊の悲劇は、後世に我々に平和の大切さを教えてくれた。
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