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慶応義塾大学の創設者「福沢諭吉」はどんな人だったの?

福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、江戸時代から明治にかけて活躍した、蘭学者(らんがくしゃ)、著述家(ちょじゅつか)、啓蒙思想家(けいもうしそうか)であり、教育者なのです。





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1984年(昭和59年)に日本銀行券(にほんぎんこうけん)の一万円札の紙幣表面(しへいひょうめん)に肖像(しょうぞう)として採用され、今に至っています。

%e3%83%9e%e3%82%b8%e3%82%ad%e3%83%81%e9%80%9f%e5%a0%b1_majikichi-com(写真:マジキチ速報_majikichi.com)

それ以前は、一万円札には「聖徳太子(しょうとくたいし)の肖像が採用されていましたが、この頃から新一万円札に「福沢諭吉」となっています。

www-sportscardspackrat-com(写真:www.sportscardspackrat.com)

千円札の肖像には、「伊藤博文(いとうひろふみ)」から文豪「夏目漱石(なつめそうせき)」に、五千円札は「新渡戸稲造(にとべいなぞう)」から小説家「樋口一葉(ひぐちいちよう)」となっています。

福沢諭吉しかり、文化を重んじた銀行券となっています。

○福沢諭吉とは、どんな人だったの?

福沢諭吉は1834年に、大坂(今の大阪)で生まれている。

父は中津藩(なかつはん)今の大分県の身分の低い武士でしたが。諭吉が子どもの頃、亡くなっている。

諭吉は残された家族といっしょに暮らしている。

しかし、どんなにがんばっても農民や町民は武士になれないことや、たとえ武士に成れても、武士の中でも身分の低い武士だと、上の地位になれないことに、諭吉は納得できなかった。

その頃の日本は江戸時代で、鎖国(さこく)が行われていて、外国を行き来したり、貿易(ぼうえき)も一部の港でしか開港していなかった時代でもある。

その一部開港し外国との貿易を許されていた長崎を諭吉は訪れる。

そこで蘭学(らんがく)と言って、オランダの学問を一生懸命学ぶのある。

%e7%a6%8f%e6%be%a4%e8%ab%ad%e5%90%89_wikipedia(写真:福澤諭吉_Wikipedia)

大坂の塾でも蘭学を学んだ諭吉は、やがてオランダ語では誰にも負けないと言われるほどになっていった。

そして諭吉は、1858年に江戸に初めて「蘭学の塾(らんがくのじゅく)」を開くようになります。

%e8%98%ad%e5%ad%a6%e3%81%ae%e5%a1%be_%e3%81%98%e3%82%85%e3%82%93-so-net(写真:蘭学の塾_じゅん – So-net)

これが「慶応義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく)」の始まりとなったのです。

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○諭吉は西洋文化の大切さを知る!

やがて諭吉は、1859年に横浜港を訪れることになります。

その頃の幕府はすでに鎖国をやめており、横浜港は外国に向けて開かれていたのです。

しかし、そこでは自分の得意とするオランダ語は通用しません。

周りの外国人がしゃべっている言葉は、英語ばかりだったのです。

そのとき諭吉は、世界で一番使われているのは、オランダ語ではなく英語であることを知ったのです。

諭吉は今度は英語を学び、やがて外国に実際訪(たず)ねてみたくなりました。

外国での訪問を願い出て、ヨーロッパを1回、アメリカを2回訪れています。

諭吉はその時、「男も女も平等に生きて、才能あるものは、家柄(いえがら)に関係なく高い地位につける」ことを学んだ。

そのときの経験をもとに、諭吉は西洋文化を分かりやすく紹介した「西洋事情(せいようじじょう)」という本を書いています。

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1868年に諭吉は、慶応義塾を正式に開き、その後有名な「学問のすすめ」という本を発表することになります。

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その「学問のすすめ」の中で、特に有名な言葉を残している。

人は平等で、生まれた家、
裕福な者、貧しい者など、
決してそのようなことで、
人が左右されるものではない。
もしも、人と人との違いを
決めるものがあるとするなら、
それは学問をしたかしないかで
決まるものだ。

こうして「学問のすすめ」を通して、人々に学問の大切さを教えようとした諭吉の考えは、江戸から明治へと、大きく変わる世の中を生きた日本人に、とても大きな影響を与えたもとになっています。




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○まとめ

・福沢諭吉は、蘭学者、著述家、啓蒙思想家であり、教育者である。

・1984年(昭和59年)に日本銀行券の一万円札の紙幣表面に肖像となっている。

・福沢諭吉は1834年に、大坂(今の大阪)で生まれている。

・一部開港し外国との貿易を許されていた長崎を諭吉は訪れる。

・そこで蘭学と言って、オランダの学問を一生懸命学ぶ。

・諭吉は、1858年に江戸に初めて「蘭学の塾」を開くようになる。

・これが「慶応義塾大学」の始まりとなった。

・諭吉は、1859年に横浜港を訪れることになる。

・そこでは自分の得意とするオランダ語は通用しない。

・諭吉は今度は英語を学び、やがて外国に実際訪(たず)ねてみたくなった。

・諭吉はその時、「男も女も平等に生きて、才能あるものは、家柄に関係なく高い地位につける」ことを学んだ。

・諭吉は西洋文化を分かりやすく紹介した「西洋事情」という本を書いている

・1868年に諭吉は、慶応義塾を正式に開き、その後有名な「学問のすすめ」という本を発表する。




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