戦国時代の美人として知られる細川ガラシャの生涯!
皆さん「細川ガラシャ」という戦国時代の女性はご存じだろうか。
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彼女は織田信長(おだのぶなが)を「本能寺の変」で謀反(むほん)をおこし、豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって倒された「明智光秀(あけちみつひで)」の三女である。
(明智光秀_マーブル)
細川忠興(ほそかわただおき)に嫁(とつ)ぎ、キリスト教信者としても有名。
この「ガラシャ」という呼び名は、キリスト教徒らが彼女を讃(たた)えた称号(しょうごう)のようなもので、現在でも広く呼ばれることが多い。
戦国の世、夫のために命を絶(た)った清きキリシタンでもあった。
○細川ガラシャとはどんな人だったの?
細川ガラシャは、本名「明智珠(玉)(あけちたま)」、戦国時代から安土桃山時代(あづちももやまじだい)にかけて、戦乱(せんらん)の世を生きた女性である。
(THE 歴史列伝)
明智光秀の三女でもあり、細川忠興(ほそかわただおき)の正室(せいしつ)である。忠興は、生涯において側室を持たなかったとも言われている。
(細川忠興_ウィキペディア)
明智珠(あけちたま)の父・明智光秀は、主君(しゅくん)であった織田信長に謀反(むほん)をおこし、その後羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって倒される。
光秀は主君を倒した「逆臣(ぎゃくじん)」として、珠も「逆臣の娘」として扱われるようになった。
明智光秀が謀反をおこしたとき、珠は細川家に嫁いでいた。忠興は珠を愛していたので、離婚(りこん)する気はなかった。
このまま今まで通りに珠と暮らしていると、悪い噂(うわさ)が広まってしまうと考えた忠興は、珠をしばらく別の場所で離れて暮らすことにした。
その珠の身近に仕えっていた女性の中に、キリスト教信者がいたと言われている。
やがて珠は忠興の元へ戻ることを許された。
その頃、夫・忠興の友人に高山右近(たかやまうこん)という人物がいて、キリシタンだったと言われている。
珠は彼の話を聞くうちに、どんどんキリスト教の教えに興味(きょうみ)を持つようになっていった。
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○細川ガラシャは夫のため死を選ぶ!
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代になり、宣教師(せんきょうし)としてキリスト教を広めることを禁止(きんし)していた。
珠がキリシタンだとわかれば、忠興もただではすまなかった。
そのため珠は、夫に内緒(ないしょ)でキリスト教の洗礼(せんれい)を受け、「ガラシャ」という称号(しょうごう)を受けることになる。
その後、秀吉が亡くなると、豊臣家と徳川家で争いがおこることになった。
忠興は徳川に味方し、豊臣側の指揮官(しきかん)であった石田三成(いしだみつなり)は、忠興のいない間にガラシャを捕(とら)え、忠興を自分に味方するように、人質(ひとじち)にしたのである。
このままでは、夫・忠興は困ると思ったガラシャは、自分が死ぬしかないと考えた。
キリシタンは自殺(じさつ)を禁(きん)じていたので、ガラシャは、部屋の外から家来(けらい)に槍(やり)で自分をつかせ、命を絶ったのである。
こうして、夫のために死を選んだガラシャであるが、ガラシャが亡くなる前に、こんな歌を残している。
”散り抜くべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ”
この歌は、「死ぬべきときに人は死ななくていけない」という意味になる。死するべきときが、ガラシャにとってその時だった。
彼女の美しい生き方は、今でもたくさんの人たちに感動(かんどう)を与えている。
○まとめ
・「細川ガラシャ」という戦国時代の女性で、「明智光秀」の三女である。
・細川忠興に嫁ぎ、キリスト教信者としても有名である。
・細川ガラシャは、本名「明智珠(玉)」戦乱の世を生きた女性である。
・明智珠の父・明智光秀は、主君であった織田信長に謀反をおこし、その後羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって倒される。
・珠も「逆臣の娘」として扱われるようになった。
・夫・細川忠興の友人に高山右近という人物がいて、キリシタンだった。
・珠は彼の話を聞くうちに、どんどんキリスト教の教えに興味を持つようになっていった。
・珠は、夫に内緒でキリスト教の洗礼(せんれい)を受け、「ガラシャ」という称号を受けることになる。
・石田三成は、忠興のいない間にガラシャを捕え、忠興を自分に味方するように、人質にした。
・このままでは、夫・忠興は困ると思い、ガラシャは、部屋の外から家来に槍で自分をつかせ、命を絶った。
・こうして、夫のために死を選んだガラシャである。
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