トヨタ自動車の創業者「豊田喜一郎」とはどんな人?
今や世界の「トヨタ」と呼ばれるまでに、トヨタ自動車は世界各国で使われています。
日本の自動車メーカーと言えば、トヨタの他に日産(にっさん)自動車、ホンダ自動車、スズキ自動車などが有名です。
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世界では、米GM(ジェネラル・モーターズ)と首位を競っているのです。2016年にはダイハツを完全子会社化し小型車の開発を強化しています。
そのトヨタ自動車の創業者である「豊田喜一郎」とは、どんな人物だったのでしょうか。
(写真:豊田喜一郎_ja.wikipedia.org)
○織機産業から自動車へ
トヨタ自動車は、自動車をつくる前は、織機(しょっき)で有名だったことはご存じでしょうか。
織機(しょっき)とは、布などを織る機械のことで、豊田自動織機(とよたじどうしょっき)として、当時有名でした。
(写真:豊田式織機1_www.jmtba.or.jp)
この織物機械をつくる技術が、自動車部品の源流となっているのです。
20世紀の初めに当時世界一の性能と言われた自動織機(じどうしょっき)を完成させた「豊田佐吉(とよださきち)」であった。
豊田喜一郎(とよだきいちろう)は、彼の長男として、静岡県で生まれている。
3歳のときに、父・佐吉の住む愛知県名古屋市に移り住むことになる。
1920年、26歳のときに東京大学工学部を卒業した喜一郎は、父の会社である豊田自動織機の会社に入るのです。
(写真:豊田喜一郎_gazoo.com)
喜一郎が仕事に就いて間もなく、1921年から1922年に父・佐吉と、異母妹の夫である利三郎(りさぶろう)ともに海外に出かけることになったのです。
(図:家系図_brb12751.la.coocan.jp)
喜一郎がが見た海外の光景は、驚くものばかりでした。
町の中を走るたくさんの自動車。それらをつくるたくさんの工場や、部品工場が並んでいることに驚かされたのです。
喜一郎は、「いつかは、日本で自動車会社をつくろう」と決心するのです。
その頃の日本は、自動車はアメリカからたくさん輸入(ゆにゅう)されるようになっていました。
このままでは、アメリカの自動車ばかりで、日本の自動車産業は全く育たなくなると思うようになったのです。
国産の自動車を開発するのは、今しかないと考えるようになったのも、この頃でした。
しかし、自動車を開発し、製造するのはとてもお金と労力がかかるもにです。
ましては、自動車の製造をしたことがないので、未知の世界でもあります。
社内でも反対する人も多くいたのですが、喜一郎はそういう人たちを説得してまわり、1933年に社内で「自動車部」をつくることになったのです。
1936年に、自動車製造事業法(じどうしゃせいぞうじぎょうほう)の許可会社(きょかがいしゃ)に指定され、1937年に、トヨタ自動車工業株式会社として、独立することになります。
トヨタ自動車工業株式会社の初代社長は、豊田利三郎が就任している。喜一郎は、当時は副社長となっていた。
(写真:初代社長豊田利三郎_www.toyota.co.jp)
1941年に喜一郎は、社長に就任している。
独立後、荒れ地だった58万坪の土地を取得し、自動車工場を建設した。
やがて第二次世界大戦が終わると、トヨタは「トヨペット」などの乗用車を開発していくのです。
しかし喜一郎は、自分たちがつくった自動車が日本中を走りまわる時代を見届けることなく、病気のため57歳という若さで亡くなってしまうのです。
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○国産自動車の開発をめざす!
自動車部として、まず行ったのは、アメリカ製の自動車を研究することから始まった。
使える部品はアメリカ製の自動車部品を使い、エンジンなどの主要なものは、自分たちでつくれるものは、自分たちでつくっていこうと、決めていたのです。
喜一郎をはじめ、自動車部は毎日研究を続け、組み立ててはこわし、分解する毎日となっていました。
喜一郎は、家に帰らず工場に寝泊まりする日々が続いたのです。
そういう作業を繰り返すことが、よりよい自動車をつくり出すことにつながる信じていたのです。
そして1935年についに、日本で最初の乗用車(じょうようしゃ)「A1型(えーわんがた)」が完成する。
(写真:トヨダ・AA型乗用車_ja.wikipedia.org)
その後、1937年に「トヨタ自動車工業株式会社」(後のトヨタ自動車)が設立される。
それから日本産業を支える、自動車社会へと成長を遂げ、今や世界でもトップシェアとなるまでに成長したのです。
もし喜一郎が、織機産業だけに目を向けていたら、今の日本の自動車産業は生まれなかったのかも知れません。
自動車産業が生まれても、日本の自動車はアメリカを超えるようなものには、なっていなかったかも知れません。
○豊田喜一郎の名言
トヨタ自動車の2代目の社長である豊田喜一郎は、数々職人としての名言を残しています。
その主な名言をご紹介します。
一旦トヨタから出した車は、
何処が悪くても全責任を
負わなければなりません。
それを他の部分に罪を着せずに、
自家製品の悪いところを言い逃れの
出来ぬ様にさせると云う事は、
自分自身の製品に自信をつける
最も大事な事であります。
技術者は実地が
基本であらねばならぬ。
その手が昼間は
いつも油に汚れている技術者こそ、
真に日本の工業の
再建をなし得る人である。
一生懸命働けば
われわれも生活の安定ができましょう。
こうした田園工場で愉快に働いて、
その製品がお国のためになれば、
われわわは満足であります。
作ってやる、
売ってやるではいけない。
買ってもらう、
作らしてもらっている、
という気持ちでなくてはいけない。
今日の失敗は、
工夫を続けてさえいれば、
必ず明日の成功に結びつく。
○まとめ
・トヨタ自動車は世界各国で使われている。
・トヨタ自動車の創業者である「豊田喜一郎」である。
・トヨタ自動車は、米GM(ジェネラル・モーターズ)と首位を競っている。
・トヨタ自動車は、自動車をつくる前は、織機(しょっき)で有名だった。
・この織物機械をつくる技術が、自動車部品の源流となっている。
・喜一郎が仕事に就いて間もなく、海外に出かけ、喜一郎がが見た海外の光景は、驚くものばかりだった。
・町の中を走るたくさんの自動車。それらをつくるたくさんの工場や、部品工場が並んでいることに驚かされた。
・喜一郎は、「いつかは、日本で自動車会社をつくろう」と決心する。
・1933年に社内で「自動車部」をつくることになった。
・1937年に、トヨタ自動車工業株式会社として、独立する。
・使える部品はアメリカ製の自動車部品を使い、エンジンなどの主要なものは、自分たちでつくれるものは、自分たちでつくった。
・1935年についてに、日本で最初の乗用車「A1型」が完成した。
・それから日本産業を支える、自動車社会へと成長を遂げ、今や世界でもトップシェアとなるまでに成長した。
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