フランス革命の悲劇のヒロインとなった「マリー・アントワネット」
フランスの歴史を大きく変えた出来事が、1789年7月14日にフランスのバスチーユ牢獄が襲撃されたことを発端に、「フランス革命」が始まったとされている。
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革命が起こる前は身分が決まっていて、第一の身分はキリスト教徒(14万人)、第二の身分は貴族(40万人)、第三の身分は市民や農民(2600万人)に分かれていた。
つまり大勢の第三身分の市民や農民たちに、重い税金を取り立て、第一の身分、第二の身分の人たちは、贅沢な暮しをしていた時代であった。
(写真:amamori.exblog.jp)
この時代、世界各地で革命が起こり、1776年にアメリカ独立戦争が始まって、財政難であったフランスも独立戦争に参戦していた。
革命前は、パンの価格高騰により食料暴動も起こっていた。
フランスの財政を支えていた、東インド会社も解散に追いやられていた。
フランス革命が起こる前から、フランスの財政は破たんしていたのである。
そんな時代の中に「マリー・アントワネット」がフランス国王ルイ16世の王妃して、オーストリアから嫁ぐことになる。
○ヨーロッパを巻き込む「フランス革命」
フランス革命(1792年~1802年)が本格したのは、オーストリアがフランス革命への干渉を契機に、イギリス、オランダ、ベルギー、ドイツ、北イタリア、エジプトを巻き込む戦争へと拡大していった。
(絵:フランス革命 mmtdayon.blog.fc2.com)
フランスは国内の反乱もあり、フランスは危機的状況に陥った。
オーストリアが一旦は戦争を終結させたが、1798年に再度対フランス同盟とし参戦することになる。
そんな状況下で、エジプト遠征から帰還した「ナポレン・ボナパルト」が最高権力を掌握し、ナポレン率いるフランスが反撃を開始し、オーストリアは和平条約を締結することになり、フランス革命は終結した。
(絵:ナポレン・ボナパルト www.y-history.net)
○マリー・アントワネットの幼少期のエピソード!
1755年、神聖ローマ皇帝フランツ一世と、オーストリアのマリア・テレジアの11人目の子どもとして生まれている。
マリー・アントーニア(フランス語でマリー・アントワネットと改名)の名で生を受ける。
(絵:eglantyne.shop-pro.jp)
幼いころから貴族の子どもとして育てられ、音楽に親しみ、家族で狩りにいったり、バレエやオペラを鑑賞したりして、とても恵まれた環境で育てられている。
ある時、彼女と同い年程のモーツアルト(音楽家)が、オーストリアの宮殿に呼ばれピアノの演奏をしていた。
演奏が終わり、ピアノを離れて歩いたときに、緊張が解けたせいかつまずいて転んでしまう。
そこへ彼女がやってきて、助けてくれたのです。
そのとき、彼は彼女に「将来、僕のお嫁さんにしてやる」と言ったそうです。
当時の彼女の教育を担当した者によると、「彼女は何をやるにもすぐに飽きてしまい、勉強に集中してくださらないんです。」と言っている。
アントワネットは生涯において、「一冊の本を読み終える事ができなかった」と言われている。
○「マリー・アントワネット」は政略結婚だった!
当時は、プロイセンの脅威からオーストリアはフランスとの同盟を深めようと、外交の一環として娘・マリー・アントーニア(フランス語で、マリー・アントワネット)をフランスの国王ルイ16世に嫁がせたのである。
(絵:ルイ16世 ja.wikipedia.org)
いわゆる、政略結婚でフランスに嫁がせることになった。
この時マリー・アントーニアは、フランスに嫁がされて、フランス語である「マリー・アントワネット」と改名させらている。
アントワネットは後に、ルイ16世を「馬小屋の匂いがする人」と言っている。最初はお互い馴染めず、夫婦の間には、子どもを授かることができなかった。
それから、アントワネットとルイ16世の間には、一男一女を授かることになる。
ルイ16世は、生涯において側室や愛人を持たなかったことでも有名ある。それが逆に格好の標的とされてしまったことも大きい。
当時のフランスでは、王女が出産するときは、民衆の前で出産をするのが、通例であった。
(絵:blog.livedoor.jp)
マリー・アントワネットには恥ずかしくて、屈辱的なことであったかと思われる。
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○徐々に「フランス革命」へと近づいていく!
フランスは財政難で市民たちに、より重課税を強いられていた。
そんな苦しい生活をしている農民をよそに、貴族たちはベルサイユ宮殿で、毎日パーティが開かれ、女性はよりきれいな衣装を着ることを競っていた。
それ以前に、フランスは戦争や宮殿にかかる費用の増大により、ルイ14世の時代から、財政難に陥っていた。
マリー・アントワネットは、フランスに来てから女王として、ふさわしいのは何かを一生懸命考えるようになった。
お金を使って、きれいな衣装を着て、宮殿で踊りを踊ったり、おいしい食べ物を食べることが貴族階級の特権であり、女王としての立場であると考えた。
豪華できれいな衣装を着た姿を、母であるマリー・テレジアに絵を贈ったのである。
(絵:マリー・アントワネット koimaga.jp)
母であるマリー・テレジアは、「あなたの、この姿は女王の姿ではありません」と非難している。
(絵:マリア・テレジア ja.wikipedia.org)
「あなたが、この先不幸になることは目に見えています。だから私は、あなたが不幸になる前に。この世を去りたいと思います」と、マリー・アントワネットに伝えている。
○アントワネットは宮殿で、貴族に反感を買っていた!
宮殿では、地味な性格であるルイ16世を見下している所もあり、マリー・アントワネットも宮殿では距離を置く存在となっていた。
反感している貴族たちは、宮殿意外の場所で、アントワネットへの中傷をするようになっていく。
結果的にこれらの中傷がパリ市民の憎悪を、かき立てることになっていった。
連年パリでは、凶作で収穫量が激減していた。物価は高騰し、長引く不況や失業者が増大していった。
そん中で市民は、明日食べるパンもない貧困の生活を送っていたのである。
フランス革命の発端とされている、1789年の前の年に、ルイ16世は、フランス王室財政の破綻を宣言している。
「パンがなければお菓子を食べれていいじゃない」という言葉は、マリー・アントワネットが言った言葉として有名だが、実際にはアントワネットに反感を持つ者が、アントワネットを陥れたとのではないかと言われている。
それに反感を持った市民たちは、「明日のパンを!」と叫びながら、ベルサイユ宮殿に集まった。
(絵:www.4gamer.net)
反感を持った市民たちはベルサイユ宮殿に集り、そこで初めてアントワネットを見ることになる。
初めて見た市民は、アントワネットの気品の高さやその美しさに圧倒されたと言われている。
○バスティーユ牢獄を襲撃し「フランス革命」が勃発する!
前年末から春にかけて、全国各地で農民による一揆が発生していた。
またパリ市民の武装化が着々と進んでいき、王族は武力鎮圧にのりだした。
パリ市民は、武器を求めて、バスティーユ牢獄を襲撃することになる。これにより1789年「フランス革命」が勃発する。
(絵:バスチーユ牢獄襲撃 www.vivonet.co.jp)
それから、アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて、次々に亡命してしまう。
○マリー・アントワネットの家族は幽閉される!
マリー・アントワネットの国王一家は、ベルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を拘束されることになる。
幽閉生活では、家族でチェスを楽しんだり、楽器で演奏をしたり、子どもの勉強をみるなど、優遇されていた。
この時アントワネットは、今までにない「家族との絆」が深まったと言っている。
この国王一家をどうするか、再度国王に戻してフランスを立て直すか、全く別の国王でたてるか市民の間で議論されることになる。
その最中に、国王一家は幽閉されている宮殿を抜けて、アントワネットのオーストラリアにいる兄のところへ行こうと、逃亡することなった。
移動するのに馬車が用意されたが、そこに銀食器や、衣装、食料品などの重い荷物を乗せたたため、馬車の速度は遅く、結局捕まりパリに連れ戻されることになった。
○不運のアントワネットはギロチンの刑に!
逃亡したことが裏目をなり、市民は怒り革命裁判が始まった。
1793年、その革命裁判でアントワネットの夫ルイ16世は死刑を宣告され、ギロチンの刑に処された。
マリー・アントワネットは、コンシュルジュリー牢獄に移され、その後の裁判が行われた。
(絵:脱出時の王妃(1791年))
アントワネットは、裁判で「無罪」を主張し、裁判は予想以上に難航した。
裁判では、息子との近親相姦をしたなど、濡れ衣の扱いを受けた。
アントワネットは、「これはもはや裁判ではない。子どもがいる母親全てにおいての侮辱である」と訴えた。
(絵:www.marieantoinettej.com)
これは傍聴する全ての母親や女性たちに、大きな共感を呼んだ。
しかし、結果は初めから決まっていることであり、判決では死刑を言い渡される結果となってしまう。
1793年10月16日、コンコルド広場において、夫の後を追って、ギロチンの刑に処せられることになった。
(絵:ウィキペディア 王妃マリー・アントワネットの処刑)
彼女の遺体は、1ヶ月間放置されたと言われている。
○まとめ
・フランスで1789年バスチーユ牢獄が市民に襲撃されたことを受けて、フランス革命が勃発した。
・当時フランスの階級はキリスト教徒、貴族、市民・農民の3つに分かれていた。
・市民には重い税が強いられ、貴族たちは。贅沢で豊かな生活を送っていた。
・革命以前から、パンの価格が高騰により食糧難となっていて、各地で暴動が起こっていた。
・そんな時代の中で、マリー・アントワネットは、オーストリアから政略結婚でフランスにやってきた。
・フランス革命は、1792年~1802年の十年も続く、ヨーロッパを巻き込み戦争へと発展していった。
・フランス革命を終わらせたのは、ナポレオン・ボナパルトであった。
・マリー・アントワネットの家族は幽閉されることになったが、逃亡して再度パリに連れ戻されることになる。
・革命裁判で、ルイ16世が最初「ギロチンの刑」に処された。
・次にマリー・アントワネットも同様に「ギロチンの刑」に処された。
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