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「新島八重」幕末から明治にかけて力強く生きた女性!

新島八重(にいじまやえ)は、幕末から明治にかけて会津のために戦い活躍した女性なのです。

皇族以外の女性として、政府より勲等(くんとう)として勲六等宝冠章(くんろくとうほうかんしょう)を受勲(じゅくん)しています。

会津を守るために、新政府軍(しんせいふぐん)に立ち向かい、男性とともに、戦った女性でもあるのです。





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男勝(おとこまさ)りの性格で、車に夫よりも先に乗る姿は、当時の同志社の学生は、日本で当時伝統とされている妖怪、「鵺(ぬえ)」と呼ばれ、世間からは「悪妻(あくさい)」と評されていた。

2013年にNHKの大河ドラマ「八重の桜」でも放映され、人気となった。

www.nisshinkan.jp(写真:www.nisshinkan.jp)

○新島八重とは、どうい人物?

彼女は、会津藩(今の福島県)の武士の娘として生まれている。

父は、藩の砲術指南役(ほうじゅつしなんやく)で、鉄砲や大砲の扱い方を教える役目をしていた。

八重は、男勝(おとこまさ)りの性格で力も強く、60キロもある米俵(こめだわら)を持ち上げられるほどの女性だったと言います。

新島八重_kfujiken2.exblog.jp(写真:新島八重_kfujiken2.exblog.jp)

当時は、大政奉還(たいせいほうかん)が行われ、外国から日本を守ろうと「攘夷(じょうい)」という考え方が広がっていた時代。

彼女は、これからは女性でも砲術(ほうじゅつ)を学ぶべきとして、父に砲術を教えてもらうのです。

○八重も、会津を守るために戦う!

幕末(ばくまつ・江戸時代の末期)のころ、幕府を倒そうと倒幕運動(とうばくうんどう)が起こります。

当時、薩摩藩(さつまはん・鹿児島県)と長州藩(ちょうしゅうはん・山口県)が、倒幕運動を進め、新政府軍(しんせいふぐん)を組織していた。

薩長同盟_naokun.cocolog-nifty.com(写真:薩長同盟_naokun.cocolog-nifty.com)

会津藩(あいづはん・福島県)も、藩主(はんしゅ)の松平容保(まつだいら かたもり)が中心となって、京都で「新撰組(しんせんぐみ)」を組織するなどに協力している。

松平容保_dictionary.goo.ne.jp(写真:松平容保_dictionary.goo.ne.jp)

会津の藩士たちは、新政府軍を食い止めるために戦うのです。

しかし、新政府軍の最新武器の前に、到底(とうてい)かなうことができません。

ついに新政府軍は、会津のシンボルである鶴ヶ城(つるがじょう)の攻撃を始めます。

既に会津の「白虎隊」も若き少年たちも、自ら命を絶っていたのです。

そこに現れたのが八重でした。

京都で戦死した弟・三郎の着物を着て、会津のために戦おうと決めたのです。

八重は、父から学んだ砲術を使い、鶴ヶ城に一つしかない大砲や鉄砲を使って、新政府軍に立ち向かいました。

しかし、もはや戦えないと悟った藩主・松平容保(まつだいら かたもり)は、新政府軍に降伏することになったのです。




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○八重は、京都で新しい生活をする!

生き残った家族と米沢(よねざわ・山形県)に移り住むことになった八重でしたが、行方不明となっていた兄である、覚馬(かくま)から連絡を受けることになった。

山本覚馬_ja.wikipedia.org(写真:山本覚馬_ja.wikipedia.org)

覚馬は、京都で国づくりに関する意見書が高く評価され、京都の役人として働いていたのです。

八重も兄のいる京都に向かい、兄と一緒に働くことになる。

八重は、女学校で働く中で、英語やキリスト教の教えにふれることになります。

その頃、八重は夫となる新島嬢(にいじまじょう)と出会うことになります。

新島は、キリスト教の教えをもとにした、近代的な学校を日本にもつくりたいと考えていた。

新島は、京都で八重の兄である覚馬と出会うことになり、八重と知り合うことになるのです

八重は、夫のために黙って従う日本女性ではなく、自分の意見をしっかりと持った西洋的(せいようてき)な女性でした。

1876年、新島と八重は結婚することになったのです。

www.sakura-world.net(写真:新島と八重_www.sakura-world.net)

1875年に新島は「同志社英大学(どうししゃえいだいがく)」(後の同志社大学)を設立するのですが、いろいろな反対を受けることになります。

新島は、「ハンサム・ウーマン」と呼び、八重を頼りにしていました。

それまでの日本の夫婦関係とは、とても異質(いしつ)なもので、二人の関係は、西洋的な精神に従ったものだったのです。

1890年に夫の嬢が病気で他界してからも、八重は嬢の夢であった、学校設立のための活動を続けていました。

1920年についに『同志社大学』が誕生することができたのです。

同志社大学_ja.wikipedia.org(写真:同志社大学_ja.wikipedia.org)

その一方で八重は、女性の看護師の育成を重要と考え、日本の看護教育活動にも、生涯をかけて取り組んだ女性でした。

1932年に、八重は86歳の生涯を終えて、幕末から明治、それから昭和にかけて、移り変わる時代をたくましくも、勇敢に生きたその姿は、今も多くの人に尊敬される女性なのです。

○まとめ

・新島八重は、幕末から明治にかけて会津のために戦い活躍した女性である。

・皇族以外の女性として、政府より勲等として勲六等宝冠章を受勲(じゅくん)している。

・八重は、会津藩の武士の娘として生まれている。

・八重は、男勝りの性格で力も強く、60キロもある米俵を持ち上げられるほどの女性だった。

・八重は、父から学んだ砲術を使い、大砲や鉄砲を使って、新政府軍に立ち向かった。

・八重は、1876年に新島と結婚することになる。

・新島は「同志社英大学」(後の同志社大学)を設立する。

・八重は嬢の夫・夢であった、学校設立のための活動を続ける。

・1920年についに『同志社大学』が誕生する。




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