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天下統一を目指した「織田信長」の生涯とは!?

「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻(むげん)のごとくなり」という言葉を残し、49歳のときに、家臣(かしん)である明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、「本能寺の変(ほんのうじのへん)」で命を落とした「織田信長(おだのぶなが)」とは、どういう人物だったのか。





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織田信長は、尾張国(おわりのこく・現在の愛知県)をおさめていた、織田信秀(おだのぶひで)の嫡男(ちゃくなん・あとつぎ)として生まれている。

各地をおさめていた武将(ぶしょう)が、天下統一(てんかとういつ)をめざして戦っていた戦国時代(せんごくじだい)。

その時代に活躍(かつやく)した武将(ぶしょう)の中で、最初に天下統一(てんかとういつ)をめざし、もっとも近づいた人物が、「織田信長」であった。

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信長の政権(せいけん)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康(とくがわいえやす)が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。

○信長の少年時代は「大うつけ者」と呼ばれていた!

子どもの頃の信長は、人と同じようなことを嫌い、とても変わった人物だった。

彼は、片方の袖(そで)を脱いで着物を着たり、トラの皮を身にまとい、腰にひょうたんをぶら下げて、とても変わった格好(かっこう)をして、仲間を引き連れて町中を歩き回っていた。

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信長は、これでまの決まりごとを気にせず、自分の好きな格好をし、好き勝手な行いをしていた。

そんな信長を人々は、「大うつけ者(おおばかもの)」と呼ばれていた。

そして、父の信秀(のぶひで)が亡くなった葬儀(そうぎ)のお寺で、いつもと同じような服装(ふくそう)で上がり込み、線香(せんこう)の灰をパーッと投げつけて、そのまま立ち去った。

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これを見た父・信秀の家臣たちは、「これから織田家を継ぐというのに、あのようなうつけ者では、この織田家も終わりだ。」とささやかれていた。

○織田信長は「桶狭間の戦い」で一躍有名となる!

そんな信長に、最大のピンチが訪れようとしていた。

1560年、駿河国(するがのくに、今の静岡県)を治めていた「今川義元(いまがわよしもと)」が、天下をおさめようと、京都に2万5000人の兵を侵攻(しんこう)していた。

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今川軍率いる軍勢(ぐんぜい)は、京都への通り道である、信長がおさめる尾張(おわり)に進軍(しんぐん)していた。

戦(いくさ)は、避(さ)けられない状況であった。

織田の家臣(かじん)たちは、「ついに織田家も、これで終わりだ」とささやかれていた。

家臣たちが、そう思うのも無理はない。
今川の軍勢2万5000人に対して、織田の軍勢はわずな少数であったからだ。

父・信秀の没後、織田家では弟・信勝(のぶかつ)と内紛(ないふん)が起こり、その結果、尾張・三河国(みかわのくに)における織田家の勢力は動揺(どうよう)し、今川方に寝返(ねがえ)った家臣も多かった。

尾張西南(おわりにしなん)の蟹江城(かにえじょう)も今川方に侵略(しんりゃく)されており、伊勢湾海域(いせわんかいいき)の制海権(せいかいけん)も徐々に侵略(しんりゃく)されつつあった。

そんな時信長は、今川軍接近の報を受けても最初は動かなかった。

その後、信長は2000から3000人といわれる軍勢を、鳴海城(なるみじょう)を囲む砦(とりで)である善昭寺(ぜんしょうじ)に軍を構(かま)えた。

中嶋砦(なかじまとりで)の前衛(ぜんえい)に張り出していた、佐々政次(さっさせいじ)と千秋四朗(せんしゅうしろう)ら、30余りの部隊は、信長出陣に意気(いき)が上がり、単独で今川本陣(いまがわほんじん)に攻撃(こうげき)を仕掛けた。

しかし今川軍の逆襲(ぎゃくしゅう)にあい、佐々と千秋らが討ち取られてしまう。

この勝利に気を良くした、今川軍の家臣たちは、近くの村を襲(おそ)い強奪(ごうだつ)の限りを尽くし、兵はならばらの状態となっていた。

視界(しかい)を妨げるほどの豪雨(ごおう)が降るなか。

織田軍はこれに乗(じょう)じて兵を進め、今川軍の本隊(ほんたい)に奇襲(きしゅう)をかけた。

今川軍の兵力は2万人であったとされているが、このとき今川を守る兵力は、5000から6000人に過ぎなかった。

この情報(じょうほう)を察知(さっち)した織田は、「今川軍を攻撃するのは、今だ!」と攻撃をかけた。

少数の織田軍は、今川本陣に攻め入った。

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このとき「信長公記(のぶながこうき)」によると、今川は興(きょう、はじ)を捨て、300騎(き)の親衛隊(しんえいたい)に囲まれながら、兵を退却(たいきゃく)しようしたが、度重(たびかさ)なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の騎兵(きへい)に追いつかれたと記(しる)されている。

その時、織田軍の毛利良勝(もうりよしかつ)によって、攻め込まれた今川義元は、とうとう毛利に討ち取られてしまう。

今川義元が首を討ち取られる際に、毛利の左指を食いちぎったと言われている。

%e5%8f%a4%e7%be%8e%e8%a1%93%e3%82%82%e3%82%8a%e3%81%bf%e3%82%84(古美術もりみや)

今川義元が戦死(せんし)したことを受けて、今川軍は戦意(せんい)を喪失(そうしつ)し、この戦いは織田軍の勝利となった。

この戦いに勝利をおさめた信長は、一躍(いちやく)戦国武将(せんごくぶしょう)としての名をあげることになった。

しかし信長は、今川義元の首を討ち取った毛利に褒美(ほうび)を取らせることはなかった。

この戦況下(せんきょうか)で情報を与えたものに、褒美(ほうび)を与えている。




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○ついに京都入りし「室町幕府」を倒す!

桶狭間(おけはざま)の合戦で今川義元に勝った信長は、今川家から独立し、三河(みかわ、今の愛知県)をおさめるようになった徳川家康(とくがわいえやす)と同盟(どうめい)を結ぶ。

そして信長は西を、家康は東を攻めていこうと、天下をめざした。

天下をとるためには、京都の幕府を攻めることになる。

信長は京都をめざすため、まず近江国(おうみのくに、今の滋賀県)の浅井長政(あさいながまさ)と同盟(どうめい)を結ばなくてはならなかった。

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そこで、自分の妹の「お市(おいち)」を嫁(とつ)がせ同盟を結ぶことに成功した。

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1567年、信長は美濃国(みののくに、今の岐阜県)をおさめていた斎藤龍興(さいとうたつおき)を滅ぼし、美濃国(みののくに)を手に入れた。

そのとき信長は、そこに岐阜城(ぎふじょう)を建てた。

その翌年、京都に入った信長は、戦国時代にほとんど幕府としての勢力を失っていた「室町幕府(むろまちばくふ)」の将軍である、「足利義昭(あしかがよしあき)」がいた。

%e8%b6%b3%e5%88%a9%e7%be%a9%e6%98%ad_wikipedia(足利義昭_Wikipedia)

義昭は、信長を倒そうと画策(かくさく)し、味方(みかた)になりそうな大名(だいみょう)に声をかけた。

それを知った信長に、逆に義昭を京都から追い出し、これで室町幕府は崩壊(ほうかい)することになる。

それから信長は、敵対する各地の武将を次から次へと倒していった。

特に有名な戦いが、1575年の「長篠(ながしの)の戦い」が有名である。

家康と手を組み、当時山梨県と長野県をおさめていた「武田勝頼(たけだかつより)」を、当時最新の武器であった、「鉄砲(てっぽう)」の大部隊(だいぶたい)をつくって倒した。

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○信長は商売や文化を広めるなど活躍した!

信長は戦いばかりでなく、例えば琵琶湖(びわこ)のほとりに安土城(あづちじょう)を建て、その城下町(じょうかまち)では、自由に商売することを許し、繁栄(はんえい)していった。

それが「楽市・楽座」と呼ばれるもので、安土桃山時代に、織田信長や豊臣秀吉の政権(せいけん)や各地の戦国大名(せんごくだいみょう)などにより、城下町で最も栄えたところとなった。

%e6%a5%bd%e5%b8%82%e3%83%bb%e6%a5%bd%e5%ba%a7_blog-goo-ne-jp(楽市・楽座_blog.goo.ne.jp)

それまで商人の特権だった、独占販売(どくせんはんばい)や、非課税権(ひかぜいけん)、不入権(ふにゅうけん)などのを排除(はいじょ)して、自由取引市場(じゆうとりひきしじょう)をつくり、「座(ざ)」を解散(かいさん)させるものであった。

また国と国の間にある「関所(せきしょ)」を廃止し、人や物が行き来しやすいようにした。

新しい物が好きだった信長は、キリスト教など外国の文化にとても興味をもち、どんどん外国の交流を広めていった。

外国からの贈り物の中に、丸い「地球儀(ちきゅうぎ)」があった。
そのとき、贈った者が、地球は丸いものであることを伝えると、信長はすんなり納得したと言われている。

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信長は日本だけでなく世界を知り、地球は丸いものだということを理解していたのである。

○信長は明智光秀の謀反にあい「本能寺」で倒れる!

天正10年(1582年)6月21日、家臣(かしん)である明智光秀(みつひで)が謀反(むほん)を起こし、京都の本能寺(ほんのうじ)にて宿泊していた主君(しゅくん)・織田信長を襲撃(しゅうげき)した。

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そのとき信長は寝込(ねこ)みを襲(おそ)われ包囲(ほうい)されたことを知ると、寺に火を放(はな)ち自害(じがい)したとされている。

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しかし一説によると、寺は相当な爆音で吹き飛んだという説もある。
その爆発により、信長の遺体は粉々に吹き飛んだとされている。

当時、中国出陣を前に、相当量の爆薬を本能寺の地下に隠してあったのではないかとされている。

明智光秀が謀反を起こした経緯(けいい)については、明らかにされていない。

光秀は石山本願寺(いしやまほんがんじ)に挙兵(きょへい)する際に、信長と義昭(よしあき)に従軍し、出陣している。

比叡山(ひえいざん)焼き討ちの際には、実行部隊(じっこうぶたい)として発揮(はっき)し、その功績(こうせき)が認められ、信長から近江国(おうみのくに、今の滋賀県)の5万石(まんごく)を与えられている。

天正3年(1575年)には高屋城(たかやじょう)の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆撲滅にも参戦している。

天正14年(1576年)の石山本願寺との天王寺の戦いにおいて、逆襲を受けて危ういところを信長の援軍(えんぐん)に助けられる。

「明智家法」には、「一族家臣は子孫に至るまで信長様へのご奉公を忘れてならぬ」という信長への感謝文が残さている。

garashatv-jimdo-com(garashatv.jimdo.com)

床の間には、信長直筆の書を掛けるなど、信長公にしたっていることが伺える。

光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)と不仲であったこという説が有力である。

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農家で生まれた羽柴秀吉は、信長に認められ、次々に信長の恩恵を受けて出生していった。

一方で長年、信長に仕えてきた武士出身の光秀には、耐えられなかった。

遠征に失敗した際に、光秀の領土を信長は奪っている。

そんな不満が、光秀は不満を持っていたとされる。

家臣である明智光秀の謀反であることを知った信長は、家臣に「是非に及ばず」という最期の言葉を残している。

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信長は、炎の中で地下の爆薬に火がついて、爆死したとされる。

○まとめ

・家臣である明智光秀の謀反により、「本能寺の変」で命を落とした「織田信長」とは、どういう人物だったのか。

・織田信長は、尾張国をおさめていた、織田信秀の嫡男(ちゃくなん)として生まれている。

・各地をおさめていた武将が、天下統一をめざして戦っていた戦国時代。

・最初に天下統一をめざし、もっとも近づいた人物が、「織田信長」であった。

・信長の政権は、豊臣秀吉、徳川家康)が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。

・信長の少年時代は「大うつけ者」と呼ばれていた。

・織田信長は桶狭間の戦いで今川義元の戦いに勝利して一躍有名となった。

・ついに京都入りし「室町幕府」を倒す。

・信長は商売や文化を広めるなど活躍した。

・「楽市・楽座」と呼ばれるもので、安土桃山時代に、織田信長や豊臣秀吉の政権や各地の戦国大名などにより、城下町で最も栄えたところとなった。

・信長は明智光秀の謀反にあい「本能寺」で倒れる。




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