宝塚のミュージカルにもなった写真家ロバートキャパの一生!
皆さんは、知っている方も少ないと思いますが、戦争の写真を撮って戦争の悲惨さを写真や絵やマンガ、歌にしたりして、世の中に「戦争反対」の声を人々に伝えた人物がいます。
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それが20世紀最高の戦争の報道写真家と称された「ロバート・キャパ」である。
彼の人生は、宝塚でミュージカルにもなり、キャパの残した「生命の記録」は、今も色あせることなく輝き続けている。
(バウ・ミュージカル『ロバート・キャパ 魂の記録』)
○戦争反対を写真で示したロバート・キャパとは!?
ロバート・キャパ(Robert Capa)は、ハンガリー出身の写真家で、本名は「フリードマン・エンドレ・エルネー」と言う。
スペイン内戦、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や第一次インドシナ戦争など、5つの戦争を取材し、20世紀を代表する「戦場カメラマン」である。
キャパは1913年10月22日、洋服店を営んでいたユダヤ系の両親のもと、ハンガリーのブタペストで生まれる。
キャパは1931年に共産党の左翼運動に加担した容疑で逮捕されている。
その後、ドイツのベルリンに渡り、ドイツ高等専門学校に入学するも、翌年世界大恐慌が発生し、両親からの仕送りが期待できなくなった。
そこでキャパは、ドイツのベルリンにあった写真の会社で助手として仕事をする。
そこで彼のデビュー作となるデンマークの首都・コンペンハーゲンで公演する「レフ・トロッキーの写真」を撮影する。
当時ユダヤ人の迫害が激化し、母と弟はアメリカに亡命した。父はブダペストに残ることになるが、その後消息については分かっていない。
キャパ自身も例外ではなく、ユダヤ人の排斥(はいせき)にさらされ、ベルリンを脱出し一時ウィーンに身を寄せている。
彼はフランスパリに拠点を構えたものの、全くと言っていいほど彼の写真を買うものはいなかった。
わずかに売れても、安値でたたかれ、生活できるほどの生活費を得られることはなかった。
そん中、同じユダヤ人の写真家でもある「ゲルダ・タロー」と仕事を通して知り合い、彼の名で自分の写真を売って生計を立てていた。
(ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー)
1936年にフランスの写真週刊誌に、彼らの写真が採用された。
写真のタイトルは「死の瞬間の人民戦線の兵士」で、翌年その写真が大きな発行部数となり、アメリカのグラフ誌「LIFE」に投稿されることになった。
そのときの撮影者の名前に「ロバート・キャパ」と記されていることから、一躍この名が知れるようになった。
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○多くの戦場のようすを撮影したキャパ
キャパは、それからも戦争の写真を撮り続けた。
1938年には、日中戦争を中国側の立場になって、1940年には、アメリカ合衆国の立場になって、第二次世界大戦の写真を撮り続けた。
戦争の写真を撮って、雑誌の編集社に送り、撮った写真は雑誌に掲載され、人々の注目を集めた。
キャパの撮る写真は、どれも迫力のあるものばかりだったが、彼の写真はそれだけではなかった。
平和を愛し人間を大切にしようという気持ちが、どの写真からも伝わってくるものばかりであった。
(Yahoo!ブログ )
さらに1948年には第一次中東戦争を撮影し、1954年には日本にもやってきている。
このキャパは、雑誌社から「第一次インドシナ戦争の撮影をしてほしい」と依頼があり、北ベトナムに行くことになった。
しかし、現地でふと触れてしまった地雷が爆発し、40歳という若さで亡くなってしまう。
今でもキャパは、勇気があり熱い心をもった戦場カメラマンとして、世界中の人々に知られている。
(blog.goo.ne.jp)
○まとめ
・20世紀最高の戦争の報道写真家と称された「ロバート・キャパ」がいる。
・彼の人生は、宝塚でミュージカルにもなり、キャパの残した「生命の記録」は、今も色あせることなく輝き続けている。
・キャパは、ユダヤ人の排斥(はいせき)にさらされ、ベルリンを脱出し一時ウィーンに身を寄せる。
・同じユダヤ人の写真家でもある「ゲルダ・タロー」と仕事を通して知り合い、彼の名で自分の写真を売って生計を立てる。
・1936年にフランスの写真週刊誌に、彼らの写真が採用され、彼は有名になっていく。
・戦争の写真を撮って、雑誌の編集社に送り、撮った写真は雑誌に掲載され、人々の注目を集めた。
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