2度に渡る「元寇」襲来をしりぞかせた神風!
今から750年前に、元国(今の中国)が日本を攻めてきています。それがいわゆる「元寇」と言われています。
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日本がこの戦いで、降伏して破れていたら、今の日本はなかったのではないか、日本は中国の一部になっていたのではないか、そんな時代であったのです。
日本は周りが海で囲まれた島国であり、当時は飛行機のなかった時代には、外国と行き来するには、船を使うしかありません。
日本では台風も多いので、海を渡るのも命がけのだったのです。
ところが、モンゴル帝国の皇帝「フビライ(=クビライ)・ハン」が船を使い、日本を征服しようと攻めてきたのです。
(絵:フビライ(クビライ)・ハン detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
フビライ・ハンの祖父にあたる「チンギス・ハン」は、アジアとヨーロッパの国々をまとめ、巨大なモンゴル帝国を築きあげていた時代でもあります。
(絵:gakuen.gifu-net.ed.jp)
フビライは1260年に皇帝になると、都を大都(今の北京)に移して、国の名を「元」と改めました。
その頃、フビライは日本に何度も使者はをおくり、元に従うように言ってきたのです。
しかし、日本もかんたんに従うことはありませんでした。
怒ったフビライは、とうとう日本を目指し、1274年に4万人ものモンゴル軍を率いて、日本に攻めてくるのです。
○元から2回もしりぞける神風!
元が攻めてくると察知していた、鎌倉幕府をおさめていた「北条時宗」は、まず九州の守りを固めるのです。
1274年、4万人もの元の大軍が、九州の博多湾にやってきます。
当時のモンゴル軍は、日本の武器よりも遠くに飛ばすことができる弓矢や、火薬などの武器を使って、集団で攻撃してきます。
(絵:f48.aaacafe.ne.jp)
それでも、日本の武士は上陸してくる元の兵士と戦って、なんとか退けていくのです。
苦しい戦いが続くなかで、最後はなんと台風によって元の船が沈むなどで、モンゴル軍は大きな被害を受けることになります。
(絵:blog.goo.ne.jp)
そのため、モンゴル軍は日本から撤退を余儀なくされることになります。
次のモンゴル軍が攻めてきたのは、1281年で元は15万人もの大軍を率いて、日本に攻めてくるようになります。
再び九州の博多湾に攻めてきています。
今度は日本は事前に、元が襲ってくることを予想して、海沿いに石垣をつくって、モンゴル軍の兵士の上陸を防ぐことになります。
この石垣が「元寇防塁」と言われているものになります。
(絵:www.geocities.jp)
日本も霧の中、元の船に潜り込んで攻撃するなど、応戦するのです。
最後は暴風雨によって、元はまたも大きな被害を受けることになるのです。
こうして日本は、2度の「神風」に救われることになるのです。
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○元の進入を防いだ「元寇防塁」とは?
元寇防塁(げんこうぼうるい)とは、鎌倉時代に北九州の博多湾岸一帯に築かれた防塁です。
蒙古襲来を防ぐために築かれた防塁となります。
1931年に国の史跡に指定されている。
1274年に一回目の元の襲来を受けた鎌倉幕府は本格的に対策を講じることになる。
翌年異国征伐として高麗出兵を計画し、それと並行して石垣を築造させ、元の再襲来に備えています。
防塁の高さは2メートルほどで、総延長は西の福岡市西区今津から東の福岡市東区香椎なでの、約20キロメートルに及ぶという。
これを1年近くかけて、築きあげている。
(写真:bunkazai.city.fukuoka.lg.jp)
しかし、江戸時代に入り福岡城の築城の際に、防塁の石の大半が失われることになります。
○「元寇」により鎌倉幕府の崩壊の原因となる!
元寇のために鎌倉幕府は、財政難に陥ることになります。
また、この戦いで活躍した武士に十分な恩賞を用意できなかったことで、武士たちは幕府に不満を持つようになっていきます。後に鎌倉幕府が崩壊する原因となっていったのです。
(写真:www.princehotels.co.jp)
○乳児のお尻にできる「蒙古斑」はモンゴル人と関係あるの?
よく乳児のお尻に、薄青いあざのようなものができますが、この青いあざを「蒙古斑」と呼ばれています。
(写真:iku-share.jp)
この「蒙古斑」は、乳幼児のように皮膚の薄いときに現れ、3歳~5歳で消失すると言われています。実際は完全に消えることはないですが。
「蒙古斑」は、主にモンゴル人や日本人などに現れ、黒人や白人も出来ると言われています。
「蒙古斑」の「蒙古」の意味は、モンゴル人ではなく「モンゴル人種(黄色人種)」という意味で、ドイツのエルヴィン・ベルツが、モンゴロイド(黄色人種)の特徴として、「Mongolian Spot」という名で発表したことから、このような薄青いあざを「蒙古斑」と呼ぶようになったのです。
「蒙古斑」とモンゴル人とは、名前そのものの由来としては関係ないようです。
○まとめ
・今から750年前に「元寇」として、モンゴル人が日本を支配しようと大軍を率いて船で攻めてきた。
・1274年に4万人ものモンゴル人が船で攻めるも、台風によりモンゴル人の船は大打撃を受ける。
・その後、1281年にも15万人もの大軍を率いて日本に攻めるも、「元寇防塁」や2度目の台風に合い、元寇は大打撃を受けることになる。
・「元寇防塁」は、高さは2メートルで全長20キロメートルにも及ぶもので、1年近くかけて築きあげている。
・この「元寇」により、鎌倉幕府の崩壊の原因となった。
・乳児にできるお尻の「蒙古斑」は、黄色人種がよくできる薄青いあざから、「蒙古斑」と呼ばれるようになった。
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