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数多くの名言や英雄を輩出した吉田松陰!

江戸時代の終わりに、世の中を治めていた幕府を新しい時代をつくるため、たくさんの人々が自分の信念のもとに活動していた。

そのような人々をたくさん育て、大きな影響を与えた人物が「吉田松陰(よしだしょういん)」である。




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彼の名言の中で、次のような言葉がある。

至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり

これは、精一杯の誠意で相手に接すれば、それで心を動かされない人はいない。
すなわち、人を動かそうと思ったら、真心を持って、、精一杯の心で接するべし。ということである。

彼は、明治維新の英雄を数多く育てた人物でもある。

動乱の時代だからこそ、吉田松陰の考えに賛同した人々も多かったのではないでしょうか。

○吉田松陰は子どものころから兵学の道に進む!

吉田松陰(よしだしょういん)は、長州藩士で、思想家、教育者である。

一般的に明治維新の精神的指導者、理論者、倒幕論者として知られている。

(吉田松陰_出典:co-media)

彼の教育で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に、思想的影響を与えた。

松陰は、長州藩士で今の山口県の武士の家に生まれる。

4歳の頃、松陰は吉田大助というおじの養子になるが、そのおじが急死してしまい、6歳のときに吉田家を継ぐことになる。

吉田家は藩の兵学者(戦の仕方を研究し、教える人)をしていたので、松陰も、当然兵学の道に進むことになった。

松陰は、別のおじである「玉木分之進」に厳しく指導され、めきめきと力をつけていった。

そして11歳のの頃には、藩主の「毛利敬親(もうりたかちか)」に、兵学を教えるほどになっていた。

日本は江戸時代、中国とオランダ以外の外国とは交流も持たない、いわば「鎖国」をしていた時代。

ところが、日本の周りにも、西洋の船がたびたび姿を見せるようになっていた。

日本は大きく動こうとしていた。

○松陰は日本中を旅して将来を考える!

兵学者としてさまざまな学問を学んでいた松陰の耳にも、そういう話しが入ってきたに違いない。

松陰は、「小さな島国である日本にも、いつか大きな力を持った西洋の国が攻め込んでくるだろう。それらの国から日本を守るには、どうしたいいだろう。」と考えていた。

そして松陰は1850年、21歳のときに藩に願い出て、世間のいろいろなことを学ぶために、旅に出たいと申し出た。

まず松陰は長崎に向かい、当時江戸時代に日本が外国との交流が持てるのは長崎だけだったので、そこで西洋の学問を学んだ。

(長崎・出島_出典:livedoor Blog)

松陰は、西洋の兵学について学び、西洋についてのたくさんの本を読んだ。

また旅の間、いろいろな人と会って話をし、日本の将来について意見を交わした。

長崎から熊本を経て、また長州に戻った松陰は、休むまもなく藩主の敬親(たかちか)のお供として、江戸へ向かった。

江戸でも松陰は多くの学問を学び、中でも西洋の学問を研究した。

洋学者の佐久間象山(さくましょうざん)という人物に多くのことを学んだ。

(佐久間象山 – 出典:Wikipedia)

松陰は、「象山の言う通り、このままでは日本は外国から守れないだろう」思った。

そして松陰は、ある決意を固めたのである。




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○松陰は日本を外国から守るにはどうしたいいか考えた!

松陰が江戸を訪れていた頃、東北地方の海に、外国の船がたくさん姿を見せていた。

そのようすを実際にみるため、松陰は東北に旅に出ようと考えた。

しかし、長州藩から旅の許可がなかなか出なかった。

松陰は、長州藩の許可がでなまま東北へ出発してしまった。

ところが当時、藩の決まりでは、藩の許可なく藩の外にでることは「脱藩」という、重い罪であった。

そのため松陰は、江戸で捉えられ、長州に送り返されてしまったうえ、藩士の身分を剥奪されてしまった。

ところが松陰を高く評価していた藩主の毛利敬親が「10年間自由に日本中を旅をして学んだきてもよい」と松陰を許した。

そして1853年、日本を揺さぶる大きな事件が起こった。

それが有名なアメリカの黒船・ペリーが日本にやってきたのである。

(黒船・ペリー来航_出典:Naverまとめ)

その頃江戸にいた松陰も、黒船を見に行き、日本と西洋との力の差を思い知ったのである。

松陰はもっと西洋のことを知りたいと考えていた。

1854年にペリーが日本に再びやってきたときに、小さな船に乗り込んで、黒船のところへ向かった。

そして自分をアメリカに連れて行ってほしいと、頼み込んだのである。

しかし松陰のこの計画も失敗に終わり、松陰は幕府に捕まってしまった。

○「松下村塾」を開き若者の教育に専念する!

再び江戸から長州に送り返された松陰は、牢屋に入れられてしまう。

そこでは、松陰は同じ罪人たちに、学問を教えた。

そして牢屋を出ると、1857年に自宅で「松下村塾(まつしたそんじゅく)」という塾を開いた。

(松下村塾 – 出典:Wikipedia)

松陰はそこで、高杉晋作(たかすぎしんさく)伊藤博文(いとうひろふみ)など、後に明治維新で活躍することになる多くの若者に学問を教えた。

伊藤博文は、もともとは長州藩主で、後に初代、5代、7代、10代と、日本の内閣総理大臣となった人物である。
また1984年まで千円札の肖像画にもなっている。

(伊藤博文 – 出典:Wikipedia)

黒船が日本にやってきて以来、幕府は外国のいいなりとなる外交を続けていた。

さらに、そのやり方に反対する人々や、幕府を倒そうとする考える人を、多くの人を処罰するようになっていった。

外国を日本から追い払い、天皇を中心とした新しい日本をつくっていこうという「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を考えていた松陰には、反対する者も多くいた。

そこで、幕府を倒すために幕府の役人を暗殺しようという、計画を立てたが、その計画がばれてしまい。松陰は捉えられてしまう。

長州から江戸に送られた松陰は、日本の将来のことを思い、幕府の取り調べでも正直に訴えた。

しかし、松陰は幕府に処刑され、30歳という若さでこの世を去ってしまう。

しかし松陰が亡くなってから、その教えは幕府を倒し、新しい時代をつくっていこうという人々に受けつがれ、彼らを動かす大きな力となった。

○まとめ

・吉田松陰(よしだしょういん)は、長州藩士で、思想家、教育者である。

・吉田松陰は子どものころから兵学の道に進む。

・彼の教育で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に、思想的影響を与えた。

・松陰は日本中を旅して将来を考える。

・「松下村塾」を開き若者の教育に専念する。

・松陰はそこで、高杉晋作や伊藤博文など、後に明治維新で活躍することになる多くの若者に学問を教えた。




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