金閣寺を建立した足利義満 その歴史とは?
京都の金閣寺を建立したことで有名な「足利義満(あしかが よしみつ)」は、南北戦争を合一を果たし、室町幕府を築いた将軍である。
皆さんご存じの「一休さん」にも出てきる、室町時代の将軍である。
足利義満は、室町幕府初代将軍であった足利尊氏(あしかが たかうじ)の孫で、三代将軍となる。
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義満は、播磨国(はのまのくに)今の兵庫県で少年時代を過ごす。
義満が10歳の頃に父・義詮(よしあきら)が亡くなり、翌年11歳のときに足利家を継ぎ、第三代将軍となっている。
義満は成長するとともに力をつけて、京都の室町に屋敷を建て、屋敷は「室町殿」と呼ばれ、政庁を兼ねた将軍低は、後に「室町幕府」と呼ばれるようになった。
○南北朝時代を終わらせた将軍
義満が幼少のころの幕府は、南朝との抗争が続き、足利家の内紛も起こり、幕府をめぐる争いが深刻さを増している時代。
力のある地方の大名たちの中には、幕府に反発するものもあらわれた。
そこで成長した義満は、討伐軍を組織し自ら進んで先頭に立って、地方の大名を力で抑えつけたのである。
(絵:足利義満_awayajuku.web.fc2.com)
そして義満は、南北に分かれ長い間、対立していた朝廷を、一つにまとめようと考えるようになる。
南朝の後醍醐天皇(ごだいご てんのう)と北朝の足利尊氏(あしかがたかうじ)は、およそ60年もの長い間、戦っていたのであった。
義満は、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)に、南朝と北朝が交替で天皇をたてることを提案する。
南朝の天皇は、義満の提案を受け入れ、天皇の証とされる「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」を、北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)へ返還した。
こうして南北朝が統一されることになり、60年間続いた内乱を終わらせることに成功する。
義満はさらに力を持つようになり、朝廷から「太政大臣(だいじょうだいじん)」の位を授かった。
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○義満は、足利文化とされる金閣寺を建立する!
義満37歳のときに、子である義持(よしもち)に将軍の地位をゆずり、1397年に京都の北山に山荘を建設していくのであった。
山荘には3階建てになっていて、壁には金箔(きんぱく)がはりつめられた豪華な建物であった。
1407年に豪華な建物が完成する。
これが今では有名な「金閣」と呼ばれるものになった。
(写真:金閣寺_blogs.yahoo.co.jp)
完成後、金閣に後小松天皇を招き入れ、盛大な行事が行われたという。
義満は金閣の完成後が、まもなく急な病にかかり、51歳で亡くなってしまうのである。
○足利義満は、中国との貿易を盛んに行った!
1368年に中国は、「元」が滅び「明」の時代となっていた。
この明との国交を開き、貿易を始めることになる。
明から生糸、絹織物などが輸入され、日本からは銅や刀剣などを輸出していた。
この時代、日明貿易では勘合(かんごう)と呼ばれる、お札を使っていたことから、「勘合貿易」とも呼ばれていた。
(絵:勘合貿易_www.covez.jp)
「勘合貿易」には「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在する。
日本→明では「本字勘合」、明→日本では「日字勘合」が使用されることになる。
○足利義満と一休さんとの関係は?
昔のマンガで知られる「一休さん」は、室町期の禅僧(ぜんそう)のお坊さんである。幼名は千菊丸という。
(絵:一休さん_philippinebusiness.blog.so-net.ne.jp)
父は南朝方から神器を受け取り南北朝統一となった、北朝の後小松天皇である。
母は藤原の一族である日野中納言の娘・伊予の局(つぼね)であった。
云わば一休は、義満にとって敵方の天皇の子どもであったのだ。
一休は5歳のときに、母は政争に巻き込まれないようにと、一休を臨済宗安国寺に入れ、出家させるのあった。
有名な「このはし、渡るべからず」や将軍義満に屏風の虎を捕獲するよう命じられたときは、「さぁ屏風の虎を追い出してください。私が成敗します」と言った、トンチ話しを残している。
○まとめ
・足利義満は、初代将軍・足利尊氏の三代目の将軍である。
・義満が10歳のときに父・父・義詮が亡くなり、11歳で足利家を継ぐことになる。
・義満は京都の室町に屋敷を建て、政庁を兼ねた将軍低は、後に室町幕府と呼ばれるようになった。
・義満は、南北朝統一を果たした60年間続いた戦争を終わらせるのであった。
・義満は、3階建ての山荘を建設し、壁には金箔がはられた豪華な建物であった。後に「金閣」と呼ばれるようになった。
・義満は中国との貿易を盛んに行い、中国の当時・明との貿易を行っていた。
・また勘合と呼ばれるお札を使って貿易をしていたので、「勘合貿易」と呼ばれていた。
・義満と一休は、南北朝で統一される前は、ぞれぞれ敵方として戦っていた二人であった。
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