坂本龍馬の暗殺にひそむなぞ!?
日本人にとってあまりりにも有名な「坂本龍馬(さかもとりょうま)」は、歴史上の偉大な人物として、取り上げられています。
しかし、志半(こころざしなか)ばにして、新政府軍(しんせいふぐん)に不満をもつものに、京都川原町の近江屋(おうみや)で暗殺されてしまうのです。
なぜ、坂本龍馬は殺されなければならなかったのか?
また、誰が坂本龍馬を殺したのか?いまだに分かっていないのである。
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坂本龍馬は、260年続いた江戸幕府を倒し、新政府を創設することを強く望み、それに動いた人なのです。
その頃、江戸末期に外国から「ペリーが来航」していた時代で、龍馬は、これからの日本は変わっていかなければならないと、訴え、動いたのです。
また龍馬は、彼の塾生と「亀山社中(かめやましゃちゅう)」(後の海援隊(かいえんたい))の会社を組織している。
坂本龍馬が、奔走(ほんそう)して歩いた距離は、なんと4万6000キロにもなると言う。
これは、地球一周よりも長い距離になります。
一部には船を使って往来していたとも言われていますが、当時電話などない時代に、坂本龍馬は熱き想(おも)いで、日本を変えようと奔走(ほんそう)していたのです。
(写真:matome.naver.jp)
○坂本龍馬とは、どんな人物だったの?
坂本龍馬(さかもとりょうま、1836年-1867年)は、土佐(今の高知県)の身分の低い武士に生まれている。
龍馬の名は、一つだけでなく、直陰(なおかげ)、後に直柔(なおなり)と変えて、手紙を出している。
これは、自分の身を守るためにとも言われている。
龍馬は父・八平(やへい)と母・幸(さち)の二男として生まれている。
龍馬には、3歳年上の姉・乙女(おとめ)姉がいる。
龍馬は幼少のころに、この姉にとても厳しく育てられている。
(写真:otakarajoho.blog10.fc2.com)
姉に剣術(けんじゅつ)や乗馬(じょうば)や学問(がくもん)を教わっている。
龍馬は、12・3歳のまで、寝小便(ねしょうべん)ぐせがあり、気弱(きよわな)な少年であったと言われている。
龍馬は漢学(かんがく)に入学したものの、「いじめ」にあい、抜刀(ばっとう、刀を抜く) 騒(さわ)ぎを起こし、退学(たいがく)させらたという話しもある。
そんな少年の龍馬に、姉は厳しく育てたのである。
その後、龍馬の人生に大きく影響を与えたのは、姉であったのです。
その後龍馬は、18歳から23歳まで江戸(今の東京)へ剣術(けんじゅつ)の修行(しゅぎょう)に出ている。
○黒船来航が、龍馬を変える!
そんなとき、アメリカのペリー率いる「黒船」が、神奈川県横須賀市の浦賀に来航したのです。
(絵:黒船来航_ja.wikipedia.org)
ペリーは、鎖国(さこく)していた日本に、開国するように強く迫ってきていました。
それには日本の中でも意見が分かれ、外国の新しい文化を取り入れた方が日本のためだという人と、開国するれば外国に占領(せんりょう)されてしまうという人で、激しく対立することになった。
龍馬は黒船をみて、あまりにも進んだ西洋の文化に驚(おどろ)き、アメリカに勝つためには、敵(てき)をしっかり知ることが大切だと思うのです。
その頃から、オランダの学問や西洋の鉄砲の使い方などを学ぶようになる。
そして、龍馬は日本の将来を心配している仲間とともに、どうすれば日本にとって一番よいのかを、真剣に考えるようになっていった。
やがて龍馬は、国をおさめている江戸幕府の役人を倒すことで、幕府に意見をしようと考えるようになったのです。
○龍馬と勝海舟との出会い!
龍馬がまず狙ったのは、勝海舟(かつかいしゅう)であった。
(写真:勝海舟_www.kurofune-shachu.com)
勝海舟は、外国と仲良くやっていかなければいけないという意見に、龍馬は反対だったのです。
そして龍馬は、勝海舟と会うことを約束をつけたのです。
龍馬は最初、勝を殺すつもりで会うことを約束したのでしたが、勝の話しを聞くうちに、勝の新しい文化を日本に取り入れて、強い国家(こっか)をつくるべきという考えに、龍馬はいつしか心から感動していたのです。
勝を殺すつもりだったのですが、逆に勝の弟子(でし)になってしまうのです。
このときの勝海舟との出会いが、現在でも語り継がれる「坂本龍馬」を生んだといってもいいでしょう。
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○龍馬による新政府軍が誕生!
当時、長州藩(ちょうしゅうはん、今の山口県)と薩摩藩(さつまはん、今の鹿児島県)は、お互い力を持ちながらも仲が悪かった。
この二つの藩を結びつけ、薩長同盟(さっちょうどうめい)を成立させることに成功させたのです。
この薩長同盟をもとに、新政府軍が誕生していくようになったのです。
その頃同じくして、同胞(どうほう)である長州藩の「高杉晋作」との出会いがあり、高杉からピストルが贈られる。
(写真:travel.117okinawa.com)
龍馬は幕府の時代を変えるために、「船中八策(せんしゅうはっさく)」という八つの案を考えた。
(写真:船中八策_www.kodomo.go.jp)
船中八策とは、坂本龍馬が1867年に、起草(きそう)した新国家体制の基本方針とされるもの。
その中で、「大政奉還(たいせいほうかん)」という、政治の権力を天皇に返すことなどが、しめされていた。
ついには、1867年11月9日京都の二条城で、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権(せいけん)を明治天皇に返上することになった。
(絵:大政奉還_blog.nihon-syakai.net)
しかし龍馬は、京都の酒屋で暗殺されてしまうのです。
○坂本龍馬は、誰に暗殺されたのか?
龍馬はある日、京都でひっそりと、仲間の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)と祝いの酒を飲んでいた。
(写真:中岡慎太郎_www.shotentai.com)
そこで何者かに襲(おそ)われてしまう。
龍馬と中岡の二人が、薩摩藩と長州藩を結びつけた立役者であったのは、いうまでもない。
そんな薩長同盟(さっちょうどうめい)を成立させた、ひっそりした祝いの席での出来事であった。
龍馬は、なんどとなく暗殺者(あんさつしゃ)に狙(ねら)われている。
「寺田屋事件」は、ちょうど薩長同盟を結ぶために動いていた矢先のできごとであった。
伏見の「寺田屋」で祝杯を挙(あ)げていたときのこと。
そのとき、伏見奉行(ふしみぶぎょう)が、龍馬を捕まえるための準備を進めていた。
明け方2時ごろ、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍(たき)が、お風呂場の外の異常(いじょう)を察知(さっち)して、龍馬のいる2階にかけのぼり、龍馬に知らせたのです。
(写真:坂本龍馬の妻・お龍_shibayan1954.blog101.fc2.com)
すぐに多数の伏見奉行たちが、寺田屋に押し入り、龍馬を捕まえようとしたのです。
(写真:寺田屋事件_www16.plala.or.jp)
龍馬たちは、高杉から贈られたピストルで応戦(おうせん)するも、多勢に無勢で伏見薩摩藩(ふしみさつまはん)に逃げ込み、救援(きゅうえん)を求めた。
これにより、龍馬は薩摩藩に救われることになった。
これが「寺田屋事件」であるが、龍馬が命を落とすことになる「近江屋事件(おうみじけん)」となっていく。
「近江屋事件(おうみやじけん)」は、1867年12月10日、坂本龍馬と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)、山田藤吉(やまだとうきち)の3人が、京都川原町(きょうとかわはらまち)の近江屋で、暗殺された事件である。
ここで、誰が坂本龍馬を殺したのか、今でも謎とされている。
江戸幕府の京都見まわり組によると説が有力であるが、はっきりしていない。
事件当初は、新撰組(せんせんぐみ)が実行犯だと噂が流れて、それに関連して、「天満屋事件」などが起こっている。
新撰組の局長である「近藤勇(こんどういさみ)」は、取り調べで暗殺の関与を否定している。
(写真:新撰組局長・近藤勇_ameblo.jp)
しかし、1870年見まわり組の隊士(たいし)だった、今井信郎(いまいのぶお)の供述(きょうじゅつ)が発端(ほったん)となり、見まわり組が、龍馬暗殺の実行犯という説が有力となっている。
1870年12月10日(旧暦11月15日)の夕刻。
元力士である山田藤吉は客を龍馬に合わせようとするが、何者かに後ろから斬(き)られ、1日後死亡する。
その大きな物音に龍馬は、「ほたえな!(土佐弁で騒ぐな)」と言った。
その大きな声に、刺客に自分の居場所を知らせてしまったのです。
龍馬のいる2階に続く階段を駆(か)け上(のぼ)り、ふすまを開けて部屋に侵入(しんにゅう)した。
龍馬は額(ひたい)を斬(き)られた。
その後、龍馬は後頭部から背中にかけて斬られ、再度額を深く斬りつけられる。
これが致命傷となり、龍馬はほとんど即死に近い形であったという。
中岡は、その時はまだ生きていたが、2日後吐き気をして死亡している。
(写真:近江屋事件_kurumatabi.net)
近江屋の宿は、天井が低いにも関わらず、刀で斬りつけられている。
恐らく、天井が低いと知っていた暗殺者は、刀を横に振って斬りつけたのであろう。
掛け軸の絵に、飛び散った血の跡が、横に伸びていた。
(写真:minkara.carview.co.jp)
龍馬は、あまりにも突然の侵入(しんにゅう)に、ピストルを使うも当たらず、刀を抜くこともできずに、相手の刀を鞘(さや)で防御(ぼいぎょ)している。
そんな記録が残されている。
幕末から明治にかけて、日本を変えようと奔走(ほんそう)して、日本を動かした坂本龍馬ですが、当時生きていれば、もっと良い日本をつくり上げることが、できたのかも知れません。
○まとめ
・歴史上の偉大な人物として、「坂本龍馬」は有名である。
・誰が坂本龍馬を殺したのか?いまだに分かっていない。
・坂本龍馬は、260年続いた江戸幕府を倒し、新政府を創設することを強く望み、それに動いた人である。
・坂本龍馬が、奔走して歩いた距離は、なんと4万6000キロにもなると言う。
・龍馬は父・八平(やへい)と母・幸(さち)の二男として生まれている。
・龍馬には、3歳年上の姉・乙女(おとめ)姉がいる。この姉にとても厳しく育てられている。
・龍馬は、12・3歳のまで、寝小便ぐせがあり、気弱な少年であったと言われている。
・龍馬は、18歳から23歳まで江戸(今の東京)へ剣術の修行に出ている。
・アメリカのペリー率いる「黒船」が、神奈川県横須賀市の浦賀に来航した。
・龍馬は黒船をみて、アメリカに勝つためには、敵をしっかり知ることが大切だと思うようになる。
・勝海舟との出会いが、現在でも語り継がれる「坂本龍馬」を生んだといってもいい。
・坂本龍馬は、薩長同盟を成立させることに成功させた。
・長州藩の「高杉晋作」との出会いがあり、高杉からピストルが贈られる。
・1867年11月9日京都の二条城で「大政奉還」で、明治天皇に政権が渡った。
・坂本龍馬は、なんどとなく暗殺者(あんさつしゃ)に狙(ねら)われている。「寺田屋事件」は有名である。
・坂本龍馬は「近江屋事件」で、1867年12月10日に何者かによって暗殺されてしまう。
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