日本の近代文化を支えた「明治天皇」その玄孫はいるの?
260年間ほど続いた江戸時代が終わりとなり、幕府を倒して天皇を中心とした新しい時代が幕開けとなった。
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「尊王攘夷(そんのうじょうい)」が起こり、江戸幕府は政治の権限を天皇に返す「大政奉還(たいせいほうかん)」が行われた。
こうして時代は江戸から明治に移っていったのです。
(大政奉還_出典:しばやんの日々)
この明治時代に、天皇として国をまとめていったのが、明治天皇である。
旧家では、今でも明治天皇の写真が飾ってはあるのはないでしょうか。
今明治天皇の玄孫(やしゃご)-明治天皇のひ孫にあたるのが、日本法学者、政治評論家であり、作家、タレントである「竹田恒泰(たけだつねやす)」さんになります。
(竹田恒泰_出典:アメーバブログ)
彼は旧皇族の竹田家に生まれ、北朝第三代・崇光天皇の男系19世子孫にあたります。
○新しい国づくりをした明治天皇!
1867年に天皇として即位した明治天皇は、慶応3年江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)から大政奉還(たいせいほうかん)を奏上した。
(大政奉還_出典:しばやんの日々)
明治天皇はこれを受け、「王政復古の大号令」を出し、これから自らが政治を行うことを宣言した。
そして1868年には、天皇の新しい政府の基本方針を示すために「五箇条の御誓文」を発布。
(五箇条の御誓文_出典:明治神宮)
それは、いままでの古い体制を改め、天皇中心とした国家を発展させていくことを、天皇中心に誓う内容となった。
その年の9月に「江戸」から「東京」と改名され、首都が「京都」から「東京」に移された。そして江戸城が天皇の住まいとなる「皇居」なった。
10月には年号も「明治」と改められ、新しい政府のもと、国のしくみは整えられていった。
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○多くの国民に尊敬された明治天皇!
明治天皇は、日本の第122代天皇で睦仁(むつひと)天皇である。
称号は祐宮(さちのみや)で、明治聖帝・睦仁大帝とも呼ばれる。
(明治天皇_出典:コトバンク)
1889年には、国の基本ルールとなる「大日本帝国憲法(だいにほん ていこくけんぽう)」が発布され、改めて人々に天皇の地位や役割が伝えられた。
しかし、日本はまだ江戸幕府を立て直そうする動きもあり、日本は各地で内乱が起こっていた。
明治天皇は懸命にその憲法を守る努力をした。
そして国民と楽しみも苦しみもともにしたい望み、内乱とのときなどは、戦場で戦っている兵士のことを思いやり、自分も質素な食事をとり、ストーブのない部屋で過ごしたと言われる。
新しい政府によって天皇の地位や権力は高められていく一方で、このような振る舞いを行う明治天皇は、多くの国民に尊敬され、心から慕われていった。
1912年、明治天皇が重い病に倒れ、重体となったことが発表されると、国民は必死になって日本中が神社に足を運び、祈祷するようになった。
しかし人々の祈りのかいもなく、重体の発表からまもなく、崩御(ほうぎょ)されてしまう。明治天皇が亡くなると、多くの人々が殉死したとも言われる。
(明治天皇崩御_出典:Yahoo!ブログ)
明治時代、日本は近代国家として大きく発展をとげ、その発展を支えたのはたくさんの国民の努力であったが、その心のよりどころとされた、明治天皇は人々を支え続けていた。
○まとめ
・江戸幕府は政治の権限を天皇に返す「大政奉還(たいせいほうかん)」が行われた。
・そのときの天皇として国をまとめていったのが、明治天皇である。
・「江戸」から「東京」と改名され、首都が「京都」から「東京」に移された。
・年号も「明治」と改められた。
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