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中国革命の父として呼ばれ三民主義を唱えた孫文!

皆さんは中国で偉大な政治家で、中国史上で「革命の父」と呼ばれている人物はご存じだろうか。




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今の中国の共産主義ではなく、国民のための「三民主義(さんみんしゅぎ)」を唱え、本当に中国を変えようと、努力した人がいたのです。

それは、中国の革命の父と呼ばれ、中国統一を目指し三民主義を唱えた「孫文(そんぶん)」という人物がいた。

孫文は、日本にとてもゆかりのある人物である。

○清国を倒し自分たちの国をつくるために戦う!

孫文(そんぶん・スン ウェン)は、中国の政治家であり革命家として知られ、初代中華民国臨時大総統(ちゅうかみんこくりんじだいそうとう)に任命されている。

(孫文_fmfukuoka.co.jp)

辛亥革命(しんがいかくめい)を起こし、「中国革命の父」と呼ばれ、中華民国で「国父(こくふ)」となっている。

中国で1935年から1948年まで、発行されたお札の肖像にも採用されていた。

(item.rakuten.co.jp)

孫文は中国の小さな村で生まれ、アメリカのハワイで事業に成功しいる兄のすすめで、13歳のときハワイに渡っている。

孫文は、そこで英語を学び、アメリカとヨーロッパの文化を学び、やがて中国に戻って医者を目指した。

19世紀当時の中国では、「清」が支配していた時代

清はイギリスやフランス、日本など、外国との戦争を繰り返し、国の力を大きく落とす羽目になってしまっていた。

孫文は「このままでは、自分たちの国がやがて滅んでしまう」と思うになっていった。

また中国の人々も清を倒し、自分たちの民族の独立を守らなければと考えるようになっていき、孫文もその一人だった。

○三民主義を唱え革命を起こした孫文

中国に戻った孫文は、清を倒すための政治活動を始める。
そのため、清に命を狙われるこもあった。

孫文は身を隠すために、ヨーロッパや日本に渡り、政治や法律など、新しい国をつくるために、さまざまな勉強をすることになった。

そして孫文は1905年に、東京で中国同盟会というグループをつくった。

そこに日本にきていた「蒋介石(しょうかいせき)」も同盟会に参加しいる。

(中国統一を目指した国民党)

中国の民族の独立=「民主主義(みんしゅしゅぎ)」、国民の権利=「民権主義(みんけんしゅぎ)」、国民の生活を守る=「民生主義(みんせいしゅぎ)」という三つからなる「三民主義(さんみんしゅぎ)」を定めた。

(孫文著 三民主義_Yahoo! JAPAN)

孫文は、この考え方のもと、国を変えていこうと考えていた。




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○革命はまだ成功していない

そして1914年、中国で「辛亥革命(しんがいかくめい)」が起こった。

この革命は、皇帝や貴族から国民へ、政治や社会をおさめる権利を交代せせるというものであった。

孫文もそれに合わせて中国に帰国している。

そして翌年、国民の手で政治を決めるアジアで最初の「共和国(きょうわこく)」として、「中華民国(ちゅうかみんこく)」がつくられた。

孫文は、その初代大総統として、選ばれている。

しかし、孫文の掲げる「三民主義」は、なかなか進まず、孫文は清国を倒すために共に戦った「袁世凱(えんせいがい)」に、その地位をゆずった。

(袁世凱 – Wikipedia)

そころが袁世凱は、孫文の掲げる民主的な国をつくろうとせず、自分を中心とした独裁政治を行おうとしていた。

これに怒った孫文は、またも革命を起こそうしたが失敗し、日本に逃れていくことになった。

そして袁世凱の死後、再び中華民国に戻り、今度こそ理想の国づくりを進めていこうとした。

しかし1925年、孫文は理想の国を果たせぬまま、病気でこの世を去ってしまう。

孫文はこのとき、「革命はまだ成功していない」と、最後の言葉を残している。

孫文の改革がもし成功していたら、中華民国と台湾は統一されていたかも知れない。

○まとめ

・中国史上で「革命の父」と呼ばれていた「孫文」という政治家がいた。

・孫文は、日本にとてもゆかりのある人物である。

・中国で1935年から1948年まで、発行されたお札の肖像にもなっている。

・19世紀当時の中国では、「清」が支配していた時代。

・中国の人々も清を倒し、自分たちの民族の独立を守らなければと考えるようになっていき、孫文もその一人だった。

・孫文は1905年に、日本の東京で中国同盟会というグループをつくった。

・孫文は「三民主義」を定め、民主主義を唱えた人物である。

・1925年、孫文は理想の国を果たせぬまま、病気でこの世を去ってしまった。




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