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「双葉山」69連勝記録をなしとげた大横綱!

今大相撲(おおずもう)では、白鵬(はくほう)が平成の大横綱(だいよこづな)として「63連勝」という記録を残しています。それ以前に千代の富士の連勝記録「53」を大きく延ばしたものとなっている。

しかし、それ以上に「69連勝(れんしょう)」という大記録(だいきろく)を打ち出した、大横綱(だいよこづな)が昔いました。

それが「双葉山(ふたばやま)」です。





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連勝記録(れんしょうきろく)とは、大相撲本場所(おおずもう ほんばしょ)において、白星(しろぼし、勝つこと)を重ね続けた記録のことです。

場所中を挟(はさ)んで、69回連続で白星を重ねた力士が、「双葉山」なのです。

○双葉山とは、どんな人だったの?

双葉山定次(ふたばやま さだじ)は、1912年2月9日に、大分県宇佐市庄(おおいたけんうさししょう)で生まれる。第35代の横綱(よこづな)である。

(双葉山定次_Wikipedia)

5歳のときに、吹き矢が右目に直撃(ちょくげき)して、定次の目は半失明(はんしつめい)になってしまう。

父親が営む海運業(かいうんぎょう)で、いくつも船をもっていて、家の暮らしは豊かだった。

しかし、定次が9歳のときに、父親の仕事が失敗(しっぱい)して、5000円(今でいうと2億5000万円)の借金(しゃっきん)を負(せお)うことになる。

定次の母親と兄・姉は、早くから亡くなり、定次は次男坊(じなんぼう)でありながら、一家の家計(かけい)を支(ささ)えることになった。

そこで、定次は小学校を卒業するとすぐに、父親といっしょに船の仕事をするようになった。

ある日、船が嵐に遭(あ)い、船は沈没(ちんぼつ)してしまったが、定次は命を救われることになった。しかし、船を失ってしまったので船の仕事を続けられなくなってしまう。

そん中、定次は初めて出場(しゅつじょう)した相撲大会(すもうたいかい)で、優勝候補であった近所(きんじょ)の畳屋(たたみや)の息子(むすこ)と相撲をとることになった。

定次は相撲をとったことがなかったが、周りからの「押せ!押せ!」という声に、定次は相手を上から押さえつけて倒してしまった。

このことが地元(じもと)の新聞に載(の)り、この記事をみた大分県警察署長(おおいたけん けいさつ しょちょう)である双川喜一(ふたがわきいち)の世話(せわ)で、立浪部屋(たつなみべや)に入門をすることになった。

双葉山という四股名(しこな)は、お世話になった双川氏の一字が含まれていると言う。

そして15歳のときに、初めて土俵(どひょう)に上がった。

しかし入幕前(にゅうまくまえ)は、目立った力士ではなく、成績(せいせき)は4勝2敗と大きく勝ち越すことになったが、3勝3敗がほとんどであったと言う。

しかし負け越すこともなく、彼は「誰とやってもちょっとだけ強い力士」と評(ひょう)されていた。

19歳のときに、新十両(しんじゅうりょう)に昇進(しょうしん)するも、3勝8敗と初めて負け越(こ)してしまう。

彼の相撲は、小さい頃から船に乗り足腰(あしこし)が自然と鍛(きた)えられていたので、土俵際(どひょうぎわ)に攻(せ)められてもただ土俵をわることもなく、土俵際で逆転(ぎゃくてん)することが多かった。

そんな彼を「うっちゃり双葉」と皮肉(ひにく)に言う力士もいた。

(双葉山定次_宇佐市)

また彼は、相撲の取り始めの立ち合いが、相手よりも遅(おそ)く立ち上がり、相手の先手(せんて)を取ってしまうものだった。

この様子は「後(ご)の先(せん)をとる力士(りきし)」と表現(ひょうげん)された。




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○双葉山大記録への道

それから、1936年1月場所の7日目から、双葉山の連勝(れんしょう)が始まった。

(69連勝の記録をもつ横綱_こども – 西日本新聞)

5月場所では、全勝で初優勝(はつゆうしょう)してしまう。

翌年の1月と5月場所も全勝優勝(ぜんしょうゆうしょう)を果たし、横綱(よこづな)に昇進(しょうしん)した。

次の年の1月・5月場所でも全勝優勝し、5場所連続で全勝優勝となった。

1939年、双葉山は巡業中(じゅんぎょうちゅう)に病気で体重が激減(げきげん)してしまう。

それでも、土俵に上がり、初日から3日目まで勝っていたが、4日目の相手である、安藝ノ海(あきのうみ)との取り組みがあった。

人々の注目の中、「70連勝」をかけての勝負であった。

双葉山の右すくい投げに対して、安藝ノ海の左外掛(そとが)け、双葉山は安藝ノ海の外掛けを外すと、再び右すくい投げにいき、二人とも土俵に倒れた。

その判定は、双葉山が先に土俵に土をついたとなった。
双葉山は敗れて、連勝はストップされてしまった。

(1月15日、双葉山が安藝ノ海に敗れる_Yahoo!ブログ)

「双葉山」という四股名は「止(と)め名(な)」として、他の力士が名乗(なの)ることができなくなった。

偉大(いだい)な記録とともに、双葉山の名はこれからも心に残っていくことしょう。

○まとめ

・白鵬が平成の大横綱として「63連勝」という記録を残している。千代の富士の連勝記録「53」を大きく延ばしたものとなった。

・それ以上に「69連勝」という大記録を打ち出した、大横綱が、「双葉山」である。

・双葉山は、5歳のときに、吹き矢が右目に直撃して、定次の目は半失明になってしまう。

・父親が営む海運業で、いくつも船をもっていて、家の暮らしは豊かだった。

・しかし定次が9歳のときに、父親の仕事が失敗して、今でいうと2億5000万円の借金を負うことになる。

・大分県警察署長である双川喜一の世話で、立浪部屋に入門をすることになった。

・彼は、負け越すこともなく、彼は「誰とやってもちょっとだけ強い力士」と評されていた。

・土俵際に攻められてもただ土俵をわることもなく、土俵際で逆転することが多かった。

・1936年1月場所の7日目から、双葉山の連勝が始まった。

・翌年の1月と5月場所も全勝優勝を果たし、横綱に昇進した。

・双葉山は安藝ノ海の勝負に負けて、70連勝を叶うことはなかった。しかし69連勝という大記録を打ち出した。




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