ピカソが彼女の演技に絶賛した日本初の女優「川上貞奴」
今ではテレビや映画、舞台に出演している日本の俳優の中には、海外でも名を知れている人はたくさんいる。
その中で、世界的に有名となった日本初の女優がいた。それがピカソも彼女の演技に絶賛したと言われる「川上貞奴」という女性だったのである。
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貞奴はまた「日本の女優 第一号」と呼ばれ、海外で人気のなった日本初の女優となった。
○貞奴は海外でも評判となった演技
「川上 貞奴(かわかみ さだやっこ)」(旧姓:小山 貞)は、明治4年7月18日生まれ、東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子として誕生した。
7歳のときに芸鼓置屋の「浜田屋」の浜田屋亀吉の養女となる。そのときに、伝統ある「奴」名をもらい、「貞奴」と襲名している。
美しく、頭もよかった貞奴は、たちまち人気者となっていった。
(川上貞奴 – 出典:Wikipedia)
時の総理大臣である伊藤博文も彼女のファンとなり、名実ともに日本一の芸妓となった。
貞奴は1894年に、川上音二郎という芝居役者と結婚し、性を川上と名乗るようになった。
(川上音二郎_出典:明治ガイド)
音二郎は歌舞伎など、伝統のある芝居とは異なる、新しい芝居をしていた。またそれを目指していた人物である。
特に人気だったのが「オッペケペー」と歌いながら、世間の動きをおもしろおかしく演じるものであった。
(音二郎一座_出典:Yahoo!ブログ)
音二郎と貞奴の二人は、「音二郎一座」という劇団をつくり、1899年にアメリカに渡って公演を行う。
ところがあるとき、公演のためのお金を何者かに盗まれ、一座の公演はもとより、その日の飯も食べられないという大ピンチとなった。
お腹はペコペコで体はフラフラ。それでも貞奴は舞台に上がり演技した。
すると、そのギリギリの演技が観客に大いに感動を与え、貞奴が、芸妓時代に身に付けた日本舞踊の美しい踊り姿ともあって、やがて音二郎一座は大人気となっていった。
(第三百七夜・川上貞奴様_出典:アメーバブログ)
続けて音二郎一座は、イギリスやフランスに渡った。とくにフランス・パリでは、当時の大統領夫人にとても気に入られたことから、貞奴は女性に大人気となった。
貞奴が着物を着ていたことから、着物風の「ヤッコドレス」が女性に大流行した。
(ヤッコドレス_出典:タキゲン)
そして海外で有名な芸術家であるピカソなど、貞奴の演技が称賛され、フランス政府から勲章までもらうことになった。
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○貞奴・女優引退のその後
帰国した「音二郎一座」は、日本語に翻訳した外国の芝居を公演する一方で、「おとぎ芝居」という子ども向けの芝居を演じるようになる。
また、貞奴は女優を育成するための養成所をつくるなどの活動を始めていく。
しかし1911年に音二郎が病気で亡くなってしまい、悲しみながら貞奴はしばらく女優を続けていたが、やがて彼女も引退してしうのであった。
それからしばらくたった1920年頃、貞奴は「電力王」と言われた、実業家の福澤桃介(ふくざわ ももすけ)といっしょに暮らすようになる。
(福澤桃介 – 出典:Wikipedia)
じつは貞奴は、音二郎と結婚する前、桃介と恋愛関係になったのだ。
そのときは二人は結ばれることはなかったが、お互い年をとってから再び、幸せな恋に落ちたのである。
戦争が終った翌年、貞奴は表舞台に出てくることもなく、一生を終えたのである。
しかし日本の女優第一号として、その名はこれからも語り継がれていくことでしょう。
○まとめ
・戦後世界的に有名となった日本初の女優がいた。
・ピカソも彼女の演技に絶賛したと言われる「川上貞奴」という女性である。
・貞奴は「日本の女優 第一号」と呼ばれ、海外で人気のなった日本初の女優となった。
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