アンネの日記が世界中で有名になった理由とは?
アンネ・フランク(1929年6月12日-1945年3月)は、ドイツ系ユダヤ人。「アンネの日記」の著者と知られている。
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当時第二次世界大戦がはじまり、ナチス率いるドイツが猛威をふるっている時代です。
その頃、ナチスドイツがユダヤ人を迫害し、捕まれば強制収容所に入れられ最期はガス室で、毒殺されてしまう時代でありました。
(写真:matome.naver.jp)
アンネたちの家族も例外ではありません。アンネは、まだ4歳の小さな子どもでした。
○オランダに亡命し、隠れ家での生活
一家は故国ドイツを捨て、オランダのアムステルダムへ亡命をすることになります。しかし、ドイツがオランダに侵攻し始め、ユダヤ人狩りが行われていたので、アンネ家族は隠れ家の
本棚の後ろや、屋根裏で隠れて暮らすことになります。
(写真:matome.never.jp)
アンネは「なぜ、ユダヤ人というだけで、こんなにつらい目にあわなければいけないの?」と涙を流すのです。
アンネが13歳のときに、父からプレゼントされた日記帳に日記を書くことだけが、唯一に楽しみとなっていきます。
(写真:www.geocities.jp)
アンネは日記にいろいろなことを書くようになります。「いつか公園を散歩したり、思いっきり風にふかれたり、太陽の光を浴びて、アイスクリームを食べたい」など、ごく普通の生活を望んでいた。
ところが2年後、隠れ家が見つかり住人全員がナチスの収容所へと移送されることになります。
収容所の不衛生な環境の中で、アンネはチフスに感染し、ささやかな夢をかなえることなく、15歳という若さでこの世を去ることになります。
○なぜ「アンネの日記」が世界中で読まれることになったのか?
(写真:blog.goo.ne.jp)
アンネは人に読んでもらいたくて、日記を書いていたのではない。
父フランク氏は、オランダの隠れ家に残されていた娘の日記を、原文を損なわない程度に手直した上で、少部数出版し友人知人の娘の遺品として配ったのがはじまりと言われています。
当時2年間の隠れ家生活という特殊な状況下で書かれた日記は、戦争の無惨な過去を忘れないようにと、アンネが書いた日記は、ブームとなり、世界中の人に読まれるようになったのです。
日本では、児童向け推薦図書になったり、図書館や学校の図書室に置かれることになっています。
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○「アンネの日記」の一部をご紹介
なんと素晴らしいことでしょう!
世界をよくすることを始めるのに、
誰も一瞬ですら待つ必要なんてないんです。
澄みきった良心はひとを強くする
私は理想を捨てません。
どんなことがあっても、
人は本当に素晴らしい心を持っていると、今でも信じているからです。
私たちの人生は一人ひとり違うけど、皆同じなのです。
私たちは皆、幸せになることを目的に生きています。
私の想像の翼は閉じ込められても閉じ込められても、
はばたき続けるの。
苦しんだことについては私は何も考えない。
美しいことがまだ残っているんだから。
たとえ嫌なことばかりでも、
人間の本性はやっぱり善なのだということを、私は今でも信じている。
薬を10錠飲むよりも心から笑った方が、ずっと効果があるはず。
太陽の光と雲ひとつない青空があって、それを眺めていられる限り、どうして悲しくなれるというの?
与えることで貧しくなった人は、いまだかつて一人もいません。
母親が子供たちにいっさいを話してやらないかぎり、
子供は少しずついろんな知識を聞きかじり、
そしてそれはまちがった知識にちがいないのです。
教育とは、学校で習ったすべてのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。
そして、その力を社会が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、自ら考え行動できる人間をつくること、それが教育の目的といえよう。
死んだ後でも、生き続けたい。
○まとめ
・アンネ家族は、ドイツ系ユダヤ人でナチス率いるドイツに追われる毎日を過ごしていた。
・そん中で、父からプレゼントされた日記帳に自分の思いを書き綴っていった。
・日記を書くことが、アンネにとって唯一の心の支えとなった。
・隠れ家でアンネを含めて住民全員がナチスに捕まり収容される。
・収容先で、アンネはチフスに感染し15歳という若さで命をおとす。
・特殊な環境で戦時中で書いた「アンネの日記」は、世界中に読まれるベストセラーとなった。
・”死んだ後でも、生き続けたい”というアンネの日記より、その思いは世間に伝わった。今もアンネは日記の中に生き続けている。
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