「水戸黄門」の知られざる歴史
「水戸黄門」と言えば、ドラマでは諸国を漫遊して悪代官を懲らしめるという、痛快で爽快な時代劇でお馴染みとなっている。
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水戸黄門こと「徳川光圀」は、徳川御三家の一つである「水戸藩」(現在の茨城県)の第二代藩主である。
時代劇では助さんや格さんをお供に、諸国を漫遊しているが、実際のところ、光圀自身は、生涯において旅らしい旅をしていないことも分かっている。
助さんこと、佐々宗淳(介三郎)が諸国を訪れて、光圀の歴書である「大日本史」の史料を集めていたとされている。
格さんこと、安積澹泊が集めてきた史料を、編集している。
○「水戸黄門」ってどういう意味?
「水戸黄門」の「水戸」は、光圀が水戸藩主であることの意味として分かるが、「黄門」とはどういう意味なのでしょうか。
「黄門」とは、中国の宮殿の門の色が黄色に塗られていたことに、由来している。中国の当時官職の職名でもあった。
江戸時代では「中納言(ちゅうなごん)」の唐風の呼び方として、位階を表している。
徳川光圀は、「従三位権中納言」として叙任されている。従三位以上を「貴」と称し、上級貴族の位階である。
(絵:oniheru.fc2web.com)
時代劇のドラマでは、水戸黄門様が黄色い着物を着ているのも、その位階を表しているとされている。
○光圀は10代は、不良少年だった!
諸国を漫遊して、悪代官を懲らしめる名君として知られる光圀であるが、10代のころは「かぶき者」とされ、派手な身なりをして、江戸の町を遊び歩いていたと言われている。
ケンカをして、すぐに刀を振り回すなどの毎日であった。
ある説では、体に入れ墨をほどこしているともされている。
このことを生涯、光圀は隠し通したとされている。
その後、光圀は中国の歴史書である「史記(しき)」の「伯夷伝(はくいでん)」を読んで感動し、以後学問を中心に励むようなった。それから日本の歴書である「大日本史」をつくる、きっかけとなっている。
○光圀には兄がいた!
あまり知られていないことであるが、光圀には本来水戸藩主を継ぐべき兄がいた。
徳川光圀は、水戸藩主の第二代目の藩主となっているが、水戸藩主の初代藩主・徳川頼房の三男として生まれている。
本来は長男が家督を継ぐ時代であった。二男・ましては三男などは家督を継ぐことはない、時代でもあった。
しかし三男である光圀が、なぜ水戸藩主の家督を継ぐことになったのか。
光圀は幼少時に、水戸藩主の家臣である三木夫妻の子として、育てられている。
父の頼房は、正式な側室も持っておらず、奥付きの老女の娘である「久子」に光圀を生ませている。
久子は正式な側室ではなかったので、光圀を堕胎(中絶)の命が下っていた。
しかし、水戸藩主の家臣である三木夫妻が、光圀を密かに出産し育てることになった。
光圀が少年時代に不良だったのは、自分は生まれてくるべきではなかった処遇に、周りに対しての反感があったのではないか。
また一説には兄である松平頼重らを差し置いて自分が水戸藩主の後継ぎに選ばれたことによる、複雑な感情があったのではないかとされている。
寛永9年(1632年)に、水戸城に入城している。
翌年には光圀は世子として選べれることになる。
寛永13年(1636年)に、徳川3代将軍・家光からの「光圀」としての名を授かっている。
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○徳川綱吉とたたかった光圀!
徳川第5代将軍、綱吉は「悪政」として名高いとされていた。
(写真:ja.wikipedia.org)
特に「生類憐みの令」では、生き物を大切にすることから、生き物を殺していけないという、命が下った。
(写真:www.worldwide-transition.info)
特に綱吉は「戌年」生まれということもあり、犬を大事にすようにと命を出す。しかし、これが次第にエスカレートしいき、生き物すべての殺傷を禁止していくことになっていく。
当時は、蚊をつぶしただけで、罰せらることになったいう。
この当時、徳川家の世継ぎ問題が一番の重要課題とされていた。
4代将軍家綱が重い病気になっていたときも、徳川家の世継ぎになるものもが、次々と亡くなっていくのである。
綱吉も例外ではなく世継ぎに恵まれず、その中で世継ぎができないのは、「今まで生類を殺生してきたからだ」ということで、綱吉は「生類憐れみの令」を出すことになる。
「生類憐れみの令」は1回だけではなく135回も出された。綱吉が死ぬまで24年間に渡り続けられることになる。
犬、猫、鳥、魚類、貝類、虫類などまでに及んだ言われている。
それに対抗してか、光圀はこの令は撤回すべきと反対し、光圀は牧場で焼き肉を食べるなど、綱吉に抗議している。
また光圀は、虐殺した犬の死体を持っていき、ショックを与えた上で、直ちにこの悪法を改めるように諫(いさ)めた。
しかし、綱吉は光圀の言う事を聞くことはなかった。
○なぜ「水戸黄門」の時代劇は人気となったのか?
お茶の間の人気となった「水戸黄門」であるが、やはり庶民が悪代官により、苦しめられているのを、天下の副将軍である黄門様が、悪代官を懲らしめるという、設定が痛快でおもしろいものであった。
(写真:matome.naver.j)
また諸国を周ることで、いろいろな旅を経験できることも人気の秘密ではないだろうか。
「水戸黄門」は、1910年以降300以上の映画が上映され、テレビ放映では、1954年6月15日から放送されいる。
(写真:blog.goo.ne.jp)
以後お茶の間でも人気となっている。
○時代劇ドラマの助さん、格さんは架空の人物だった!
水戸黄門様のお供をしている、助さん(佐々木助三郎)、格さん(渥美格之進)は架空の人物とされている。
しかし、それらの人物のモデルとしてされいる人物がいる。
それは、助さんこと佐々木助三郎は、佐々宗淳(さっさ むねきよ)、格さんこと渥美格之進は、佐々宗淳(さっさ むねきよ)がモデルとされている。
①佐々宗淳(さっさ むねきよ):別名-佐々助三郎
(写真:www.geocities.jp)
佐々宗淳は、水戸藩主の徳川光圀に仕える江戸時代前期の僧で、儒学者とされている。通称は助三郎。「水戸黄門」に登場する、佐々木助三郎のモデルとされている。
戦国武将・佐々成政の実姉の曾孫にあたる。
34歳のときに、水戸藩に仕官し進物番兼史館編修となる。
後に光圀のもとで「大日本史」の編纂に携わることになる。
佐々は、とりわけ史料の情報収集に多く派遣されている。その分けは、彼は物事の真偽を鑑定する学力を有しているとされていたためだ。
彼が史料集めのために、その地の藩主がなかなか受け入れてくれないことに、佐々は光圀に書状を送り、なんとか藩主に聞きいれてくれないか頼んでいる。
佐々には、二女があったが男子には恵まれず、養子を迎え後を継がせようとするが、彼は30歳の若さでこの世を去り、佐々の直系の家系は絶えている。
②安積澹泊(あさか たんぱく)
(写真:www.geocities.jp )
佐々助三郎と共に、徳川光圀に仕える家臣である。
ドラマや映画では「水戸黄門」に登場する渥美格之進、格さんのモデルとされている。
安積は水戸に生まれ、水戸初代藩主である頼房に仕える、由緒ある家臣である。
安積は、光圀の「大日本史」の制作に寄与し、修史義例の作成に関与している。
○悪代官を服従させる「印籠(いんろう)」とは?
格さんが「この紋所(もんどころ)が目に入らぬか」と悪代官をひれ伏すお馴染みの場面があるが、この家紋の入った「印籠」は何に使われていたのか。
(写真:www.macotakara.jp)
「印籠(いんろう)」は、薬などを入れる小さな容器のこと。
当初は「印」を入れていたことから、印籠と呼んでいた。
素材は木製や金属製で3段から5段ぐらい分割できるようになっている。落ちないように、印籠に紐をくくりつけて帯などに挟んで使用していた。
(写真:印籠の構造)
○まとめ
・「水戸黄門」はお茶の人気で、悪代官を懲らしめ痛快で爽快な時代劇である。
・「水戸黄門」は徳川光圀で水戸藩主の二代目である。
・実際「水戸黄門」は諸国を漫遊してはいないかった。
・「水戸黄門」とは、水戸藩主の「従三位権中納言」の位階を意味するものである。
・光圀は少年時代、不良少年だった。それは生い立ちが原因とされている。
・光圀は兄いた。光圀は三男で水戸家の藩主となった。
・徳川5代将軍綱吉の「生類憐みの令」に反対するために、牧場で焼き肉を食べていた。
・「水戸黄門」に出てくる助さん、格さんは架空の人物だった。しかしそのモデルとなる人物がいた。
・悪代官をひれ伏すのに使用されている「印籠」は、実は薬などを入れておくものだった。
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