20世紀最大の芸術家「パブロピカソ」の作品はどしていいの?
絵画では大きく分けて、まず写真のない時代では写実的な絵画から始まり、次に光を捉(とら)えようとする印象派という時代に変わり、いろいろな角度で表現する抽象絵画の時代へと変わっている。
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近代において写実的な絵なら、写真で十分という時代となり、絵でどのように表現するか、芸術性を高めていくことに他ならない。
抽象絵画として「キュビスム」は、20世紀初頭に「パブロピカソ」によって創設され、多くの追随者(ついずいしゃ)を生んだ現代美術の大きな動向である。
「キュビスム」は、一つの視点に基づいて描かれた絵画ではなく、いろいろな角度から物の形を表現するという手法である。
ピカソが残した作品は、生涯におよそ1万3500点の油絵(あぶらえ)、10万点の版画(はんが)、3万点の挿絵(さしえ)、300点の彫刻(ちょうこく)や陶器(とうき)などの作品を残している。
(ピカソ_Team LENS supervision)
最も多作な芸術家としてギネス記録にも登録されている。
○「パブロピカソ」はどんな人だったの?
パブロ・ピカソは、スペインの南部地方のマラガという港町で生まれた。
子ども頃から美術の先生をしている父に絵を教わり、どんどん絵の腕を上げていった。
13歳になったとき、父はピカソに「もうお前に教えることは何もない」と言って、自らの絵具や筆、パレットなどをピカソに渡した。
ピカソが16歳のとき、マドリードの美術学校へ入学したが、すぐにその学校も物足りなくなってしまう。
(若い頃のピカソ_実りのとき What’s New)
「物を見たままに描く」写実絵は、昔からの絵の描き方だけでは、つまらないと考えるようになっていった。
1901年、ピカソは芸術の都・フランスのパリで暮らし始める。
彼はフランスで制作活動をしている作品がもっとも多い。
しかし彼は展覧会を開いたが、絵は1枚も売れず、評価もあまりよくなかった。
ピカソは当時、青い絵の具を使って悲しいテーマを描くようになった。
この頃の彼の作品は「青の時代」と呼ばれ、ピカソの貧しい人々への思いやりが現れたものになっている。
(青の時代 パブロ・ピカソ)
ピカソの絵はしだいの評価が高くなっていき、1905年には彼の絵はだんだん変化するようになっていく。
赤や黄色やピンクを使って描く「バラの時代」となっていった。
(バラの時代_パブロ=ピカソ)
この頃の彼の作品には、明るい未来や希望が感じられる絵となっていった。
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○美術の流れを変えたピカソ
1907年、ピカソは「アビニョンの娘たち」という絵を描き上げている。
この絵は、女性の姿をゆがめたり、角ばらせたりして描く、女性の中にひそむ一面を絵で表現したものである。
(ピカソ「アヴィニョンの娘たち」_山田視覚芸術研究室)
絵を一点でみるのではなく、いろいろな角度で表現する手法に変わっていった。
しかし、この表現は人々は理解できず、戸惑ってしまった。
その後この手法の絵は、「キュビスム」という考え方のもとになっている。
「キュビスム」とは冒頭でも説明したように、もともとの形を四角や線の組み合わせに置き換えて絵で表現するもので、ピカソは「キュビスム」を使って、多くの絵画を残している。
1925年、ピカソは「3人の踊り子」を描き、この絵は当時パリで始まっていた「シュルレアリスム」という芸術の動きを取り入れたものである。
(三人の踊り子_MUSEY [ミュージー])
「キュビスム」の作品とも、全く違った表現をしている。
○戦争反対を絵で表現した「ゲルニカ」
ピカソは、いろいろな作品に技術や考え方を吸収して、自分の作品をどんどん変えていく才能を持っていた。
そんなピカソが、もっとも心をいためていたのが、戦争によって、ふるさとであるスペインに内乱がおこったことである。
ピカソは爆撃を受けた町を題材にした「ゲルニカ」を発表した。
(ピカソの名作『ゲルニカ』_matome.naver.jp)
「ゲルニカ」には、戦争の悲惨(ひさん)さとピカソの戦争に対する怒りが表現されている。
この絵を見た世界中の人々が、深く感動した。
彼は91歳で亡くなるまで、休むことなく作品をつくり続ていった。
ピカソは「20世紀最大の芸術家」として、今も世界中に人々に感動を与えている人物である。
○まとめ
・絵画では大きく分けて、写実的な絵画から始まり、印象派という時代に変わり、それから抽象絵画の時代へと変わっている。
・ピカソが残した作品は、生涯におよそ1万3500点の油絵などの作品を残している。
・最も多作な芸術家としてギネス記録にも登録されている。
・ピカソは、1901年、ピカソは芸術の都・フランスのパリで暮らし始める。
・この頃の彼の作品は「青の時代」と呼ばれいる。
・それから、赤や黄色やピンクを使って描く「バラの時代」となっていった。
・1907年、ピカソは「アビニョンの娘たち」という絵を描き上げている。
・絵を一点でみるのではなく、いろいろな角度で表現する手法に変わっていった。
・その後この手法の絵は、「キュビスム」という考え方のもとになっている。
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