日本の伝統文化「茶の湯」を完成させた「千利休」
あなたは家で「抹茶(まっちゃ)」などを飲んだことはないでしょうか。
最近では抹茶入りのアイスなどがあり、抹茶入りのお菓子などもあります。
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抹茶は、粉のお茶で泡だてるようにかき混ぜて飲むもの。
ただ出されたお茶を飲んでおしまい、というものではありません。
出す側は、どのようにして出すか。
また出された側はどのように飲むのか。
このような作法を「茶道」や「茶の湯」と言います
戦国時代から安土桃山時代に織田信長、豊臣秀吉に仕えた「千利休」が、それらを完成させた人物として、知られています。
○信長や秀吉に仕えた千利休!
千利休(せん の りきゅう・せん りきゅう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけてもともとは商人であり、茶人でもある。
(千利休_堺市)
彼は「わび茶」を完成させたとして知られ、「茶聖(ちゃせい)」とも称されている。
(千利休_徳望庵)
最期は豊臣秀吉の怒りにふれ、切腹により自害させられている。
利休は、和泉国境(いずみのくにさかい)今の大阪府堺市の、豊かな商人の家に生まれている。
その頃の堺の商人たちの間では、昔中国から伝わってきた「茶の湯」が、盛んに行われていた。
利休も子どもの頃から「茶の湯」を始めており、10代のときには有名なお茶の先生に弟子入りするなど、「茶の湯」に関して相当に熱心であった。
利休の師匠は、落ち着いた静かな雰囲気の中での味わいを大切にする「わび茶」の名人で、後の利休に大きな影響を与えることになった。
やがて茶の世界で有名になった利休は、織田信長が堺を直轄地(ちょっかつち)としたときに茶頭として雇われた。
「本能寺の変」後は、豊臣秀吉に仕えるようになった。
1585年、秀吉は朝廷から「関白(かんぱく)」という称号を与えられている。
それまで宗易(そうえき)という名を使っていた利休は、このとき初めて天皇から「利休」の名を与えれている。
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○茶の「わび」「さび」を完成させた利休!
利休は「茶の湯」をさらに極めていこうとした。
道具は飾りを無くし、茶室はむだな空間をなくした狭い部屋にしたり、茶の湯の本来の「わび」「さび」という芸術を完成させていった。
(千利休の名言_徳望庵)
しかし秀吉は、逆に壁や柱も道具も、すべて金でできた黄金の茶室をつくらせるなど、利休とは反対の茶の湯を行っていた。
(黄金の茶室_徳望庵)
これでは利休の求める「茶の湯」とは、違ったものとなっていった。
(黄金の茶室 – Wikipedia)
こうした「茶の湯」の考え方の違いによって、秀吉はだんだん利休のことを気に入らなくなっていく。
しかし「茶の湯」では利休の方が、尊敬され親しまれていた。
そして1591年、ついに利休は秀吉に切腹を命じられ、70歳で亡くなってしまう。
そのとき秀吉は「頭をさげれば、許してやったのに」と後悔したと言われている。
秀吉は自分に従わない者がいることが許せなかったのでしょう。
それでも利休は、自分の信じる「茶の湯」の美の世界をつらぬいた。
そして、利休によって完成させた「茶の湯」は、日本の伝統文化として、今日において発展していった。
そして「わび」「さび」の考えは、それからの日本の建築や、美術に対する考え方に、大きな影響を与えている。
○まとめ
・出す側は、どのようにして出すか。また出された側はどのように飲むのか。このような作法を「茶道」や「茶の湯」と言いう。
・千利休は「わび茶」を完成させたとして知られ、「茶聖(ちゃせい)」とも称されている。
・最期は豊臣秀吉の怒りにふれ、切腹により自害させられている。
・利休は、道具は飾りを無くし、茶室はむだな空間をなくした狭い部屋にしたり、茶の湯の本来の「わび」「さび」という芸術を完成させていった。
・しかし秀吉は、逆に壁や柱も道具も、すべて金でできた黄金の茶室をつくらせるなど、利休とは反対の茶の湯を行っていた。
・利休の求める「茶の湯」とは、違ったものとなっていった。
・そして1591年、ついに利休は秀吉に切腹を命じられ、70歳で亡くなってしまう。
・利休によって完成させた「茶の湯」は、日本の伝統文化として、今日において発展していった。
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